16の頃の俺とヒデは、本物の馬鹿だった。なんてったて、シンナーが最高のご馳走だったんだから、我ながら馬鹿だ。セックス、ドラッグ、ロックンロールが不良のセオリーだが、その頃の俺とヒデは、オナニー、シンナー、またオナニーだった。
どうにもシンナーが手に入らなくて、シンナーの代用品であったトップコートにも飽き飽きしていた麗らかな春の日。どうにか入学出来た高校にも行かず春眠を貪りまくっていた俺の部屋に、フラリと春風の精霊の如く、足音一つ立てずに現れたヒデは、俺の起床を『カメレオン』の単行本を読み耽る事で待ち続けた。高校にも行かず、定職にも就いていないヒデにとって時間は腐る程あるシロモノだった。
『いいとも』のテレフォンショッキングが終わる頃、俺がようやく目を覚ますと、ヒデは寝ぼけ眼の俺に、とある計画を持ち掛けてきた。
「シンナー、パクりに行こうよ」
そのあまりにド直球な申し出に、半ば寝惚け状態の俺が脊髄反射よろしく、激しく魂を共鳴させたのは、何もシンナー欲しさの禁断症状の為ばかりではなかった筈だ。
「どっからパクるの?」
魂を共鳴し合わせているソウルメイト達の話は早い。
「○○塗料ってあんじゃん」
「あるな」
「そこ」
「よっしゃ、決定!」
まるでドミノ倒しの様に二人の計画がパタパタと決定していく。決行は早速、その日の夜に決定。上記の様な綿密なミーティングを終えた俺は再び春眠。ヒデは『カメレオン』読破の続きにとりかかった。因みに『カメレオン』を読み終えたヒデは、俺が寝ているのをイイ事に遊人の『ANGEL』読破に取り掛かる。途中、目が覚めたが、『ANGEL』で、文字通り身も心も熱くなっているヒデに気付いた俺は、そこは大人のマナーをわきまえつつあった16歳。勿論、寝たふり。しかし、しきりにポコ○ンの位置を正しにかかるヒデに俺は一抹の不安を抱く……。
よもや、このままココで富士山登頂を狙うワケではあるまいな……
人の心とは脆きもの。疑心はやがて暗鬼を生む。つい先程、お互いの魂を共鳴し合わせたソウルメイトに対し、この下世話な疑念。情けなし。情けないぞ俺。しかし、この部屋をスエた臭いで充満させるワケにはいかない。
「ふぁあ~~~っ」
狸寝入り度数200%オーバー気味のヘッポコ演技でヒデの暴走にブレーキを掛ける俺。そして、その俺を明らかに「ちっ!」的な顔で見るヒデ。お前、ヤル気だったな……。流石、思春期ど真ん中。そよ風一つで勃起するお年頃だぜ。
俺は風呂に入る事をヒデに告げると、ヒデも一旦、家に帰ると言う。そうか、今は一刻も早く独りになりたいのだろう。俺は深夜0時にヒデの家に行く事を約束して、風呂に向かった。風呂から上がると、ヒデは『ANGEL』を勝手に持ち帰っていた。
そして、あっという間に夜は訪れる。
深夜0時を10分程過ぎた頃、俺は愛車のYAMAHA『JOG』をスッ飛ばしてヒデの家に現れた。集合予定時間に遅れていたが、俺はそんなもの屁とも思ってはいなかった。なぜなら、俺もヒデも、既に時間を超越した男共だったからだ。案の定、ヒデの部屋へ上がり込むと、ヒデはトランクス一枚で『11PM』を観ていた。ヒデの部屋の隅に無造作に積まれている『ANGEL』の単行本を横目で確認した俺は、ヒデに向かって一言だけ伝える。
「借りる時は、借りると言え」
へへへ……ヒデが照れ臭そうに笑う。
「さっさと用意しろよ、行くぞ」
「慌てなさんな」
モソモソとTシャツを着るヒデだが、顔は『11PM』に向けられたまま。とりあえず、俺も腰を下ろし『11PM』を眺めながら、ヒデの準備が整うのを待つ事にした。すると、何たる事だろうか。『11PM』の今夜の特集は「現代風俗事情」!!
出発は深夜1時過ぎに変更となった……。
俺は愛車『JOG』に跨り、ヒデは自分のHONDA『Dio』を運転して○○塗装店を目指した。○○塗装店は俺らの4歳上の先輩の家で、俺らの住んでる地域唯一のペンキ屋だった。中学を卒業したヒデは卒業してスグ、そこでバイトしていた。実は、その頃から倉庫に眠るシンナーに目を付けていたらしい。
愛車を走らせる事、約15分。○○塗装店が目と鼻の先まで来ると、俺達は原付を下り、エンジンを切って、店舗の裏にある倉庫の前まで原付を押しながら辿り着いた。
「ココさ、無用心だから、倉庫に鍵かけないんだよ」
暗闇の中でもヒデの得意気な様子が伝わってくる。
「さっさとパクって帰ろうぜ」
俺は久し振りに味わうシンナーが恋しくて恋しくて仕方なかった。
ガラガラと音を立てて鉄の扉を開き、俺とヒデは倉庫に忍び込む。倉庫に設けられた天窓から差込む星明りで、倉庫内にズラリと並ぶ一斗缶の山が浮かび上がる。俺の目が段々と闇に慣れてくる。闇をも見透かす事が可能となった俺のライトアイが缶の表面にゴチャゴチャと並べられたアルファベットの文字を確認する。
「日本語で書けよ!日本語で!」
思わず呟いてしまう俺。仕方が無いじゃないか。日本語でさえもシンナーでボジャけた俺らの頭じゃ、ろくすっぽ使いこなせていないのに、ましてやアルファベットで書かれた文章なんか読める筈が無い。正直、アルファベットがローマ字で書かれてたって、読める自信は全く無い。
「これじゃ、どれがシンナーか、わかんねぇよ……」
「匂いで確認すりゃイイじゃん」
流石、ソウルメイト。何と頼もしい事か。ヒデはポコポコと一斗缶の蓋を開けると「おおっ」とか「はぁ~」とかヌカシながら、次々と缶の中身を確認していく。
「コレだ……」
ヒデがお目当てのお宝を掘り当てたらしく、俺の名前を呼んだ。俺は急いでヒデの傍に駆け寄ると缶の口に鼻を近付け、その匂いを確認した。
「間違いねぇ。ヘヘヘ……」
自然と笑いが込み上げてくる。ヒデも同じ様に「ヘヘヘ……」と笑い出す。
「サッサとバイクに乗せて帰るぜ。ククク……」
俺は早く帰ってシンナーを頂きたいので、支持を出そうとするのだが、どうにも笑いを堪える事が出来無い。俺が堪えられないんだから、勿論、ヒデが堪える筈も無く、二人でウヒウヒと笑いながら、スクーターの足元にシンナーの一斗缶を一缶づつ乗せて、俺らは○○塗料店の倉庫を後にした。
「こんだけありゃ、当分シンナーにゃ不自由しねぇよ」
俺とヒデの二人は、それぞれ一斗缶を後生大事に抱え込んで、ヒデの部屋へと続く階段を、ウヒウヒ笑いの浮かれポンチで駆け上がっていった。ヒデの部屋にバタバタと転がり込むと部屋の灯りを点けて、いよいよ今日の獲物を堪能……の筈だったが、そうは問屋が卸してくれないのが世の習い。
「うそっ!!」
部屋の灯りの下に、その姿を晒した一斗缶の中身は全て黄色のペンキだった。
その夜、俺とヒデは、ヒデの部屋をペンキで真っ黄色に塗ってやった。壁も天井も、床も。全てが塗り終わる頃には、既に明け方だった。俺とヒデの二人はゲラゲラ笑いながら朝を迎えた。俺は密室での塗装作業で完全にボジャけた頭のまま、『JOG』に乗って家路に着いた。
ヒデは俺が帰った後、黄色の部屋で夕方まで爆睡すると、突然目を覚まし、目の前に広がる世界が、現実なのか夢なのか、はたまたボジャけた頭が作り出した幻覚なのかも理解出来ずにワケのわからない状態で、裸足のまま家を飛び出すと愛車の『Dio』をカッ飛ばして、ダンプに跳ねられ死んだ。
混沌混。沌混沌。その先で待つ 御中虫
※この記事は、以前『鉄屑詩集』と云う自分のブログでUPしようとしていたものなんですが、どういうワケかアメブロの倫理コードに引っ掛かってしまい、強制削除された幻の作品ですw
今回、鉄塊のブログを使ってリベンジしてみました。(風狂子)
2012年7月29日日曜日
2012年7月27日金曜日
鈴木牛後句集「根雪と記す」評
藤井雪兎
我が「鉄塊」と公式ブログをリンクさせて頂いている俳句集団「itak」様所属の鈴木牛後様から、ツイッターのつながりで句集「根雪と記す」を寄贈して頂いた。入手は諦めていたので、全くの僥倖だった。ネット社会様々である。
もう既にこの句集の句集評がかなり書かれているので、私の拙文を晒すのも気が引けるのだがどうかお許し頂きたい。
句集の外見の特徴は「CDジャケット」と聞いていたが、本当にそうだった。ディスクユニオンのレジの横などにあるNow Playingの所に立てておいても違和感は無い。CDケースに入れてみようとしたが、句集の方が少し大きくて入らなかった。惜しい。
さて、前置きはここまでにして、特に素晴らしかった句を句評と共に5句ほど。ちなみに私は句集を読む時、気に入った句の頭に○を付けるのだが、それがほとんどの句に付いてしまい、いい意味で選ぶのが大変だった。
行く春のいつか何かに使ふ箱
『何か』とあるのだから、ここでは重箱や弁当箱のように用途がはっきりしている箱ではないだろう。おそらく役目は終えたが捨てるには惜しくなるような箱、つまり菓子箱ではないだろうか。春の茶会も終わり、空になった菓子箱に今年の春の思い出を詰め込んで、来年の春を待つのだ。
畜生と言はれて牛の眼の涼し
仏教では、悪業を行い愚痴や不平ばかりで感謝の無い者は死後畜生に生まれるとされる。だが彼等の健やかな姿はどうだ。思わず羨ましくなるほどではないか。そんな姿に嫉妬して罵る人間が次の畜生になり、のんびり暮らし、また人間になるのだ。実によくできている。
秋桜や駅より見ゆる次の駅
北海道には秋桜の名所が多いらしい。土地も広いのでかなりの範囲で咲くのだろう。開けている場所も多いので、今いる駅から次の駅が見えるのもまた北海道ならでは。他の都道府県ではあまりお目にかかれない。旅先から送られて来た絵葉書を眺めているようだ。
時雨るるや遊具は鉄として売られ
時雨れているのだから、この遊具で遊んだ事のある子はその場にいないかもしれない。それは救いであり悲劇でもある。この遊具は溶かされて再利用されるのだろうが、次は何に生まれ変わるのか。願わくばまた遊具となって子供達の元へ戻って来て欲しい。
人に首空に月ある寒さかな
どちらも当たり前の事だが、この世が形を保つ上で崩れてはならない法則である。人の首が無くなる時、どうなるのかは周知の事実だが、空の月が無くなる時について知っている人はいない。血の代わりに何が噴き出すのか。考えながら寒さに震える。
自然と共に暮らし、また、自然に生かされているといった自覚が無ければ持ち得ない視線だと感じた。その句作の方法は言うならば客観写生ならぬ「共存写生」だろうか。これはまさしくこの作者の特権である。これからも私は彼の句に驚かされるだろう。次の句集も楽しみだ。
2012年7月21日土曜日
「第一回鍛錬句会」を全部読む。
天坂寝覚
さて、この度勝手に『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』と題した文章を記させていただく訳ですが、第一回、第二回と鍛錬・研鑽両句会が滞り無く終了しまして、今は第三回選句の真っ只中。
その最中に今更第一回を採り上げてどうすんだ、第三回の選句をしろ、句を詠め、とおっしゃる向きもおありかとは思います。
とは言え。
今回こういった形で鉄塊衆の皆さんの句が集まり、そしてそれに触れる事が出来たわけですが、この会の性質上、解釈・感想といったものはどうしても各選に採った句の分しか伝えられません。(別途コメントで言えばいいだけという気もしますが)
ですが、採らなかった句を全く読まなかったのか、自分なりの解釈、感想がなかったのか、というとこれは勿論、否です。加えて、選句を終えてから新たな解釈に気付いたり、新たな感想が生まれることもありますし、そしてそういう事が起こるだけの時間も経過しました。
そうした中で、どうせなら全ての句の感想・解釈を伝えたいという、よく言えば情熱、悪く言えば僕のエゴ、ついでに言うならもったいない精神と些細な自己顕示欲、さらには読んでるんですよ参加してますよアピールが結晶化し、今回こういったことを勝手にさせていただく運びと相成ったわけです。
とはいえ先述した通り、僕の情熱・エゴ・その他諸々からスタートしている文章ですので、各句によせる感想・解釈には作者の方が意図していないものも多々あろうと思います。
が、それらはあくまでも「僕の」感想・解釈です。しかも恐らく(間違いなく?)暴走しています。
ですから、そういったところに異論・反論・オブジェクションがございましたら是非とも包み隠さず、全力でぶつけて頂きたいと思っている次第です。その方が僕の為にもなりますので、何卒よろしくお願い致します。
といったところまで来て、前置き・言い訳がずいぶん長くなってしまったことに気が付きました。
それでは、甚だ僭越ながら天坂寝覚による『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』
始めさせていただきます。
(※句の順列は五十音順です。)
意を決して出るあたたかい雨だ
まずは読んで字の如く、です。
雨と言えば冷たい。
その先入観を基に覚悟して雨中に出たら存外そんなことはなく、あたたかかった。
そこには小さな発見があり、そしてとても平和です。
けれどその印象は、『あたたかい』という部分にフォーカスを当てるから生まれるのだろう、と僕は思いました。
それなら、他の部分では?
その場合の対象は『意を決して出る』の、特に『意を決して』の部分でしょう。
続く『あたたかい』から推測するに、この言葉は降る雨の冷たさを想定してのものと言えます。
しかし、意を決さなければいけないような雨です。
ならば普通は傘を差すでしょうし、僕ならそうします。
けれど句の主人公は『あたたかい雨』に気付く。つまりは傘を差していない。
では、と考えてゆくと、この主人公は「雨に打たれたい」のだと思うのです。
それも、意を決する必要があるほどの冷たい雨に。
しかし、結果として主人公に降ったのは、望んだような冷たい雨ではなく、あたたかい雨。
僕はそこに、主人公の小さな落胆を見ました。
貸した本から落ちて陰毛
貸した本から落ちるものがあって、それは陰毛だった。
文章にしてしまえばどうということは無く、男同士で貸し借りをすればままあることなのですが、そうは言っても常に疑問符が付きまとう光景にして出来事です。
あいにく僕は女性とものの貸し借りをしたことが無いので、相手が女性であってもこの光景が生まれるのかどうかは知らないのですが(できれば生まれないことを望んでいますが)、この句はそうしたことを差し引いても、男の男による男のための「ちょっと笑えて、ちょっとサビシイ」句だな、と思います。
ただ、『落ちて』という言い方に少し引っかかり、喉越しの悪さみたいなものを感じました。
陰毛の句で喉越しと言ってしまうのは、我ながらどうかとは思いますが。
片目の伯父を父は見るなと
具体的な説明はなく、ただ「触れ得ざるもの」として遠ざける。
それは親のエゴであり、優しさでしょう。そうした親の気持ちをこの句の『父』には感じました。
そして、そのエゴと優しさは、兄弟のそれとして伯父にも向けられているのでしょう。
主人公はそのエゴと優しさ、自分に向けられたものと伯父に向けられたもの、それらのどちらかではなくどちらも。つまり父の気持ちを全て受け取ったのではないでしょうか。
『見るなと』という終わりに感じる強さと、それでありながら宙に浮いてしまっているような感じ。
それは、そうした父の気持ちを全て受け取ったが故に真っ向から反発出来ない、さりとて全面的に肯定も出来ないという、自身の気持ちの着地点の定まらなさ。
その表れではないか、と僕は見ました。
そしてその不安定感が、伯父に対しては気まずさとなって表れているのだろう、と。
その定まらなさ、気まずさはとても人間的で、それ故にとてもやさしいと思います。
今日からニートの女と歩く
こうしている瞬間にも『今日からニートの女』は生まれているでしょうし、歩いているでしょう。
そうした意味と、『ニート』という言葉から現代的な句だな、というのがまず初めの印象でした。
その印象を得て、『今日から』と『ニートの女』という言葉の組み合わせをしばらく眺めていたのですが、そうするうちに、この『女』とは「子育てを終えた女性」を指した言葉ではないか、という発想が生まれました。
であれば、と考えてゆくと、わざわざ『ニート』と呼んでしまう、女への気持ちを素直に表せない男の照れが見え、そしてそうした照れを抱えながらその『女と歩く』。
きっと、ずっと歩いていく。
一組の夫婦の、夫視点からのドラマ、その中の老境の二人によるシーンが見えました。
そういうドラマ、僕は好きです。(多分にロマンチックな解釈だとは思いますが。 )
春の雨の軒下の知らない猫と居る
「『の』の使い方に少し引っかかりを感じました。恐らく響きを重視したんではないかと思うのですが、かえってそこのところでうまく飲み込めませんでした。」(第一回句会選句理由より。)
と、いったことを書いた後に作者さんから「コマ送り」というヒントをいただいて、それでこの句の見方をつかんだのですが、そうするとコマ送りというよりももっと動画的な句だな、という感想を持ちました。
春の雨がまず遠景で映り、それから軒下を外から映した引きの画に切り替わり、そして軒下の内にいる私の目線で『知らない猫』が映り、最後に軒下の内から見た雨が映る。
その一連の景色は物憂げで、静かで、そして私も猫も互いに干渉しないが為に少し気まずい。
それ故にか、それにも拘らずか、景色全体を通しての印象はとても穏やか。
景色の描写と、私の心情が渾然となった句だと今は思います。
春の麗らの万年床の下のカビ
『春の麗ら』という美しさに、『万年床の下のカビ』という不快が続く。
その美醜の対比に加えて、春という入れ替わる、移り変わるものに、万年床という不動性をもつものが直面することで、よりいっそう万年床の主の物臭さ、ズボラさが際立って感じられました。
これぞまさしく男の一人暮らし。恋人やそれに準ずる女性の存在は微塵も感じ取れません。
とは言え『春の麗ら』という言葉、言い回しには、そういう存在を求めている雰囲気も感じます。
なれば、まずは布団を干して、カビを掃除するところから、と言いたいところですが、きっとこの万年床の主はそういう努力はしない気がします。なんせ僕がそうでしたし、そうですし。
ひみつ基地に妹忍び込んでいた
これはもう『ひみつ基地』という言葉の勝利だと思います。
もちろんそれだけではないのですが、この句から感じる幼さ、小児性は、やはり『ひみつ基地』という言葉が決定打となっている、と思うのです。
そこの所に重きを置くと「ひみつきち」と全て平仮名で表記しても良さそうですが、それだと幼過ぎ、あざと過ぎる感じもしますし、「ひみつき地」では言葉として見難い。
やはり『ひみつ基地』が、言葉の映りと、込められたニュアンス(難しい文字、漢字=格好いい、とする少年期の風潮)のバランスが丁度良く取れた表記なのかな、と思います。
句としては『ひみつ基地』という男子を象徴するものに、女子という異物である妹が入り込んでいることの緊張と、そしてそれを見つけた兄と、見つけられた妹との間に一瞬生まれた緊張。
けれど『いた』と過去形で終わっていますから、それらの緊張は「なんだ妹(お兄ちゃん)か」という安堵に既に切り替わって、緩和になっている。
その緊張と緩和が句の持つ小児性と相俟って、とてもほほえましい句になっていると思います。
そのほほえましさに僕は郷愁も覚えましたが、そこは個人差あるところでしょうね。
貧乏を揺すって桜を見上げる
これはちょっと、未だにうまく飲み込めないでいる句です。
『貧乏を揺すって』という言葉をまずはそのまま貧乏揺すりと見たのですが、それと『桜を見上げる』がどうしてもスムーズに繋げられない。
実景であると言われれば、それはまあそれで納得できなくもないのですが、それならそのまま貧乏揺すりでいい気もしますし、うーん。
あるいは本当に言葉どおり『貧乏を揺すって』いるのでしょうか。
が、そうなると今度は『貧乏』がなんなのかがつかめない。
身体なのか、財布なのか、精神なのか、あるいは自分ではない貧乏な誰かなのか。
はたまたそれらを包括する、観念としての貧乏なのか。
僕もいくらかは貧乏を嗜んできたつもりですが、それでもこの句における『貧乏』をつかめませんでした。
こういうことを言ってしまっては句の鑑賞態度として失格だろうと思うのですが、どうにもわからない句だな、というのが今のところの感想です。
本当に、申し訳ないの一言。
ふらふらと来て故郷の空き家の荒れ草
句を一見してまず浮かんだのは、杜甫の五言律詩「春望」でした。
あそこまで劇的な感情ではないのかもしれませんが、それでも根底に流れる寂しさ、哀しさは同様のものなのではないでしょうか。
『故郷の空き家』が指す家が、かつて自分が住んだ家なのか、親しい誰かが住んでいた家なのか、あるいは全く見ず知らずの誰かの家なのかは判りかねますが、『ふらふらと来て』という事ですから何かしらの当てがあってのことで、そうすると見ず知らずということはないですね。
ともかく、そうして来た家は空き家になっていて、荒れ草が繁るほど捨て置かれていた。
そうなってしまえばそれはもう故郷ではなく、故郷だった場所であり、もはや故郷の喪失といっても過言ではないでしょう。その喪失感、寂寥感たるや、いっそ恐ろしくすらあります。
そこに比較対象として荒れ草の生命力が現れて、まさに駄目押し。
それでも寂しさ、哀しさがいくらか抑制されているように感じるのは、『ふらふらと来て』いる自らの心情の曖昧さ、不明瞭さが故なのでしょうか。それがまた哀しさを深めます。
ポンと出た月がまあるい
『ポン』というオノマトペが、より月のまるさ、もとい、まあるさを実感させます。
どういう状況だと月がポンと出てくるのか分かりませんが、恐らくは不意に見た月なのでしょう。
そうして見た月が『まあるい』ことで生まれる喜び。
それは小さなものですが、その日一日を全て「いい一日」に変えてしまうだけの力があります。
と、色々言ってはみましたがこの句に関しては解釈もへったくれもなく、そのものをそのまま味わうべきで、その感想はと言えば、幸福なひと時をありがとう。それに尽きます。
マルクスの詩集だよかわいいね
『マルクスの詩集』というものがよく分からず、鑑賞の前にまずググってみたのですが、このマルクスはあの資本論のマルクスなんですね。
それを踏まえてこの句を読んだのですが、そうするとこの句で言う『かわいい』は上から目線の言葉というか、精一杯大人ぶろうと背伸びしている子供に向けての『かわいい』なのかな、と思いました。
ならばそれは『マルクスの詩集』そのものへではなく、それを読む誰かに向けてだろう、とも。
わざわざマルクスの、それも詩集を選んで読むくらいですからその誰かはきっと思春期も思春期、それも、ちょっと捻くれた思春期の真っ只中だろうなと思うのですが、そうした思春期の只中に居る誰かと、既に思春期を通り過ぎて「今マルクスの詩集を読んでいる誰か」を『かわいいね』と評している私。
両者には確かな差異があります。
けれどもその差異は、両者が断絶しているから生まれたのではなく、しっかりと地続きであるが故に生まれた差異なのではないでしょうか。
でなければ『かわいい』と評することは出来ないはずで、つまりは私もまた、ちょっと捻くれた思春期を過ごしてきたのでしょう。
それを踏まえて改めて句を読んでみると、この『かわいい』は上から目線というよりも、いつか来た道を振り返って、その道を今歩いている誰かを見たときの、その眼差しの優しさの表れに思えてきます。
そしてその優しさは、その誰かに在りし日の自分を見るが故なのでしょう。
僕が10代、思春期真っ只中であったなら、反発しそうなくらいに大人びた句だと思います。
(大人びてるも何も、鉄塊衆はみなさん大人なんですが。)
道暗くやけに黄色の濃い満月だ
先に出た『春の雨の~』の句を僕は動画的だと評しましたが、この句はその逆、または対で、見事なまでに静止画、写真的、絵画的な句だと思います。
分かるとか、分からないとかいった解釈の余地を作らず(無いわけでは無いですが)、ただ句という形で描かれた景色が見えるか、見えないか。
そして見えたならば、その景色が好きか嫌いかという、句によって喚起されるイメージ、ビジュアルでの直球勝負。
他の句は大なり小なり「私」が句の内に見えましたが、この句に関しては「私」は完全に句の外にいて、この景色を選んだということを以って「私」の表れとしているのでしょう。
恐らくそれは意図してのことだと思うのですが、もしそうならばその意図は、少なくとも僕に対しては完全に通じました。この句に解釈を持ち込むのは、野暮というものでしょう。
ちなみに僕に見えたこの句のビジュアルは、殆ど黒に近い藍色で塗りつぶされたキャンバスに、それよりはわずかに明るい藍色で描かれた家並や道、そして天に座す鮮やかを通り越してもはや毒々しいまでに黄色い満月。といった具合で、僕はその画にやられてしまいました。
今後の句会においても、一つくらいはこういうビジュアル勝負の句があると嬉しいです。
以上、第一回鍛錬句会の投句全15句から、僕の投句3句を抜きまして全12句。
その解釈・感想をもって『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』とさせて頂きます。
ありがとうございました。
さて、この度勝手に『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』と題した文章を記させていただく訳ですが、第一回、第二回と鍛錬・研鑽両句会が滞り無く終了しまして、今は第三回選句の真っ只中。
その最中に今更第一回を採り上げてどうすんだ、第三回の選句をしろ、句を詠め、とおっしゃる向きもおありかとは思います。
とは言え。
今回こういった形で鉄塊衆の皆さんの句が集まり、そしてそれに触れる事が出来たわけですが、この会の性質上、解釈・感想といったものはどうしても各選に採った句の分しか伝えられません。(別途コメントで言えばいいだけという気もしますが)
ですが、採らなかった句を全く読まなかったのか、自分なりの解釈、感想がなかったのか、というとこれは勿論、否です。加えて、選句を終えてから新たな解釈に気付いたり、新たな感想が生まれることもありますし、そしてそういう事が起こるだけの時間も経過しました。
そうした中で、どうせなら全ての句の感想・解釈を伝えたいという、よく言えば情熱、悪く言えば僕のエゴ、ついでに言うならもったいない精神と些細な自己顕示欲、さらには読んでるんですよ参加してますよアピールが結晶化し、今回こういったことを勝手にさせていただく運びと相成ったわけです。
とはいえ先述した通り、僕の情熱・エゴ・その他諸々からスタートしている文章ですので、各句によせる感想・解釈には作者の方が意図していないものも多々あろうと思います。
が、それらはあくまでも「僕の」感想・解釈です。しかも恐らく(間違いなく?)暴走しています。
ですから、そういったところに異論・反論・オブジェクションがございましたら是非とも包み隠さず、全力でぶつけて頂きたいと思っている次第です。その方が僕の為にもなりますので、何卒よろしくお願い致します。
といったところまで来て、前置き・言い訳がずいぶん長くなってしまったことに気が付きました。
それでは、甚だ僭越ながら天坂寝覚による『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』
始めさせていただきます。
(※句の順列は五十音順です。)
意を決して出るあたたかい雨だ
まずは読んで字の如く、です。
雨と言えば冷たい。
その先入観を基に覚悟して雨中に出たら存外そんなことはなく、あたたかかった。
そこには小さな発見があり、そしてとても平和です。
けれどその印象は、『あたたかい』という部分にフォーカスを当てるから生まれるのだろう、と僕は思いました。
それなら、他の部分では?
その場合の対象は『意を決して出る』の、特に『意を決して』の部分でしょう。
続く『あたたかい』から推測するに、この言葉は降る雨の冷たさを想定してのものと言えます。
しかし、意を決さなければいけないような雨です。
ならば普通は傘を差すでしょうし、僕ならそうします。
けれど句の主人公は『あたたかい雨』に気付く。つまりは傘を差していない。
では、と考えてゆくと、この主人公は「雨に打たれたい」のだと思うのです。
それも、意を決する必要があるほどの冷たい雨に。
しかし、結果として主人公に降ったのは、望んだような冷たい雨ではなく、あたたかい雨。
僕はそこに、主人公の小さな落胆を見ました。
貸した本から落ちて陰毛
貸した本から落ちるものがあって、それは陰毛だった。
文章にしてしまえばどうということは無く、男同士で貸し借りをすればままあることなのですが、そうは言っても常に疑問符が付きまとう光景にして出来事です。
あいにく僕は女性とものの貸し借りをしたことが無いので、相手が女性であってもこの光景が生まれるのかどうかは知らないのですが(できれば生まれないことを望んでいますが)、この句はそうしたことを差し引いても、男の男による男のための「ちょっと笑えて、ちょっとサビシイ」句だな、と思います。
ただ、『落ちて』という言い方に少し引っかかり、喉越しの悪さみたいなものを感じました。
陰毛の句で喉越しと言ってしまうのは、我ながらどうかとは思いますが。
片目の伯父を父は見るなと
具体的な説明はなく、ただ「触れ得ざるもの」として遠ざける。
それは親のエゴであり、優しさでしょう。そうした親の気持ちをこの句の『父』には感じました。
そして、そのエゴと優しさは、兄弟のそれとして伯父にも向けられているのでしょう。
主人公はそのエゴと優しさ、自分に向けられたものと伯父に向けられたもの、それらのどちらかではなくどちらも。つまり父の気持ちを全て受け取ったのではないでしょうか。
『見るなと』という終わりに感じる強さと、それでありながら宙に浮いてしまっているような感じ。
それは、そうした父の気持ちを全て受け取ったが故に真っ向から反発出来ない、さりとて全面的に肯定も出来ないという、自身の気持ちの着地点の定まらなさ。
その表れではないか、と僕は見ました。
そしてその不安定感が、伯父に対しては気まずさとなって表れているのだろう、と。
その定まらなさ、気まずさはとても人間的で、それ故にとてもやさしいと思います。
今日からニートの女と歩く
こうしている瞬間にも『今日からニートの女』は生まれているでしょうし、歩いているでしょう。
そうした意味と、『ニート』という言葉から現代的な句だな、というのがまず初めの印象でした。
その印象を得て、『今日から』と『ニートの女』という言葉の組み合わせをしばらく眺めていたのですが、そうするうちに、この『女』とは「子育てを終えた女性」を指した言葉ではないか、という発想が生まれました。
であれば、と考えてゆくと、わざわざ『ニート』と呼んでしまう、女への気持ちを素直に表せない男の照れが見え、そしてそうした照れを抱えながらその『女と歩く』。
きっと、ずっと歩いていく。
一組の夫婦の、夫視点からのドラマ、その中の老境の二人によるシーンが見えました。
そういうドラマ、僕は好きです。(多分にロマンチックな解釈だとは思いますが。 )
春の雨の軒下の知らない猫と居る
「『の』の使い方に少し引っかかりを感じました。恐らく響きを重視したんではないかと思うのですが、かえってそこのところでうまく飲み込めませんでした。」(第一回句会選句理由より。)
と、いったことを書いた後に作者さんから「コマ送り」というヒントをいただいて、それでこの句の見方をつかんだのですが、そうするとコマ送りというよりももっと動画的な句だな、という感想を持ちました。
春の雨がまず遠景で映り、それから軒下を外から映した引きの画に切り替わり、そして軒下の内にいる私の目線で『知らない猫』が映り、最後に軒下の内から見た雨が映る。
その一連の景色は物憂げで、静かで、そして私も猫も互いに干渉しないが為に少し気まずい。
それ故にか、それにも拘らずか、景色全体を通しての印象はとても穏やか。
景色の描写と、私の心情が渾然となった句だと今は思います。
春の麗らの万年床の下のカビ
『春の麗ら』という美しさに、『万年床の下のカビ』という不快が続く。
その美醜の対比に加えて、春という入れ替わる、移り変わるものに、万年床という不動性をもつものが直面することで、よりいっそう万年床の主の物臭さ、ズボラさが際立って感じられました。
これぞまさしく男の一人暮らし。恋人やそれに準ずる女性の存在は微塵も感じ取れません。
とは言え『春の麗ら』という言葉、言い回しには、そういう存在を求めている雰囲気も感じます。
なれば、まずは布団を干して、カビを掃除するところから、と言いたいところですが、きっとこの万年床の主はそういう努力はしない気がします。なんせ僕がそうでしたし、そうですし。
ひみつ基地に妹忍び込んでいた
これはもう『ひみつ基地』という言葉の勝利だと思います。
もちろんそれだけではないのですが、この句から感じる幼さ、小児性は、やはり『ひみつ基地』という言葉が決定打となっている、と思うのです。
そこの所に重きを置くと「ひみつきち」と全て平仮名で表記しても良さそうですが、それだと幼過ぎ、あざと過ぎる感じもしますし、「ひみつき地」では言葉として見難い。
やはり『ひみつ基地』が、言葉の映りと、込められたニュアンス(難しい文字、漢字=格好いい、とする少年期の風潮)のバランスが丁度良く取れた表記なのかな、と思います。
句としては『ひみつ基地』という男子を象徴するものに、女子という異物である妹が入り込んでいることの緊張と、そしてそれを見つけた兄と、見つけられた妹との間に一瞬生まれた緊張。
けれど『いた』と過去形で終わっていますから、それらの緊張は「なんだ妹(お兄ちゃん)か」という安堵に既に切り替わって、緩和になっている。
その緊張と緩和が句の持つ小児性と相俟って、とてもほほえましい句になっていると思います。
そのほほえましさに僕は郷愁も覚えましたが、そこは個人差あるところでしょうね。
貧乏を揺すって桜を見上げる
これはちょっと、未だにうまく飲み込めないでいる句です。
『貧乏を揺すって』という言葉をまずはそのまま貧乏揺すりと見たのですが、それと『桜を見上げる』がどうしてもスムーズに繋げられない。
実景であると言われれば、それはまあそれで納得できなくもないのですが、それならそのまま貧乏揺すりでいい気もしますし、うーん。
あるいは本当に言葉どおり『貧乏を揺すって』いるのでしょうか。
が、そうなると今度は『貧乏』がなんなのかがつかめない。
身体なのか、財布なのか、精神なのか、あるいは自分ではない貧乏な誰かなのか。
はたまたそれらを包括する、観念としての貧乏なのか。
僕もいくらかは貧乏を嗜んできたつもりですが、それでもこの句における『貧乏』をつかめませんでした。
こういうことを言ってしまっては句の鑑賞態度として失格だろうと思うのですが、どうにもわからない句だな、というのが今のところの感想です。
本当に、申し訳ないの一言。
ふらふらと来て故郷の空き家の荒れ草
句を一見してまず浮かんだのは、杜甫の五言律詩「春望」でした。
あそこまで劇的な感情ではないのかもしれませんが、それでも根底に流れる寂しさ、哀しさは同様のものなのではないでしょうか。
『故郷の空き家』が指す家が、かつて自分が住んだ家なのか、親しい誰かが住んでいた家なのか、あるいは全く見ず知らずの誰かの家なのかは判りかねますが、『ふらふらと来て』という事ですから何かしらの当てがあってのことで、そうすると見ず知らずということはないですね。
ともかく、そうして来た家は空き家になっていて、荒れ草が繁るほど捨て置かれていた。
そうなってしまえばそれはもう故郷ではなく、故郷だった場所であり、もはや故郷の喪失といっても過言ではないでしょう。その喪失感、寂寥感たるや、いっそ恐ろしくすらあります。
そこに比較対象として荒れ草の生命力が現れて、まさに駄目押し。
それでも寂しさ、哀しさがいくらか抑制されているように感じるのは、『ふらふらと来て』いる自らの心情の曖昧さ、不明瞭さが故なのでしょうか。それがまた哀しさを深めます。
ポンと出た月がまあるい
『ポン』というオノマトペが、より月のまるさ、もとい、まあるさを実感させます。
どういう状況だと月がポンと出てくるのか分かりませんが、恐らくは不意に見た月なのでしょう。
そうして見た月が『まあるい』ことで生まれる喜び。
それは小さなものですが、その日一日を全て「いい一日」に変えてしまうだけの力があります。
と、色々言ってはみましたがこの句に関しては解釈もへったくれもなく、そのものをそのまま味わうべきで、その感想はと言えば、幸福なひと時をありがとう。それに尽きます。
マルクスの詩集だよかわいいね
『マルクスの詩集』というものがよく分からず、鑑賞の前にまずググってみたのですが、このマルクスはあの資本論のマルクスなんですね。
それを踏まえてこの句を読んだのですが、そうするとこの句で言う『かわいい』は上から目線の言葉というか、精一杯大人ぶろうと背伸びしている子供に向けての『かわいい』なのかな、と思いました。
ならばそれは『マルクスの詩集』そのものへではなく、それを読む誰かに向けてだろう、とも。
わざわざマルクスの、それも詩集を選んで読むくらいですからその誰かはきっと思春期も思春期、それも、ちょっと捻くれた思春期の真っ只中だろうなと思うのですが、そうした思春期の只中に居る誰かと、既に思春期を通り過ぎて「今マルクスの詩集を読んでいる誰か」を『かわいいね』と評している私。
両者には確かな差異があります。
けれどもその差異は、両者が断絶しているから生まれたのではなく、しっかりと地続きであるが故に生まれた差異なのではないでしょうか。
でなければ『かわいい』と評することは出来ないはずで、つまりは私もまた、ちょっと捻くれた思春期を過ごしてきたのでしょう。
それを踏まえて改めて句を読んでみると、この『かわいい』は上から目線というよりも、いつか来た道を振り返って、その道を今歩いている誰かを見たときの、その眼差しの優しさの表れに思えてきます。
そしてその優しさは、その誰かに在りし日の自分を見るが故なのでしょう。
僕が10代、思春期真っ只中であったなら、反発しそうなくらいに大人びた句だと思います。
(大人びてるも何も、鉄塊衆はみなさん大人なんですが。)
道暗くやけに黄色の濃い満月だ
先に出た『春の雨の~』の句を僕は動画的だと評しましたが、この句はその逆、または対で、見事なまでに静止画、写真的、絵画的な句だと思います。
分かるとか、分からないとかいった解釈の余地を作らず(無いわけでは無いですが)、ただ句という形で描かれた景色が見えるか、見えないか。
そして見えたならば、その景色が好きか嫌いかという、句によって喚起されるイメージ、ビジュアルでの直球勝負。
他の句は大なり小なり「私」が句の内に見えましたが、この句に関しては「私」は完全に句の外にいて、この景色を選んだということを以って「私」の表れとしているのでしょう。
恐らくそれは意図してのことだと思うのですが、もしそうならばその意図は、少なくとも僕に対しては完全に通じました。この句に解釈を持ち込むのは、野暮というものでしょう。
ちなみに僕に見えたこの句のビジュアルは、殆ど黒に近い藍色で塗りつぶされたキャンバスに、それよりはわずかに明るい藍色で描かれた家並や道、そして天に座す鮮やかを通り越してもはや毒々しいまでに黄色い満月。といった具合で、僕はその画にやられてしまいました。
今後の句会においても、一つくらいはこういうビジュアル勝負の句があると嬉しいです。
以上、第一回鍛錬句会の投句全15句から、僕の投句3句を抜きまして全12句。
その解釈・感想をもって『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』とさせて頂きます。
ありがとうございました。
2012年7月19日木曜日
歌舞伎町7・15
藤井雪兎
7月15日の夕暮れ時、私は新宿歌舞伎町にいた。
同じ鉄塊衆の関東勢の方々にお会いするためだ。
面子はこの集まりを提案した中筋祖啓さんを始めとして、
ツィッターでも親交のある松田畦道さん、
最年少の春風亭馬堤曲さん、
そして私の計4人。
集合時間は19時半だったが、私が現地に着いた時は18時だった。
久し振りの新宿という事で少々浮かれていたのかもしれない。
新宿東口前で若者が日本の現状を憂える演説をしている横で、
還暦はとっくに超えているであろうおじさんが、
何故か上半身裸で若者を睨み付けていた。
まさに新宿だ。
紀伊國屋書店で時間を潰した後、集合場所に向かうと、
眼鏡をかけた一人の色白な青年が、
青い作務衣姿でリュックサックを背負い、
腰にウェストポーチを付けて立っていた。
中筋祖啓さんだった。
彼が僧職の方だと知らなかったらかなり面食らっていただろう。
もっとも、知っていてもある程度面食らったのだが…。
次に登場したのは松田畦道さんだった。
ツィッターでの言動から芥川龍之介のような
少し不健康な文士姿をイメージしていたのだがさにあらず、
健康的に日焼けし、礼儀正しい温和な方だった。
ご趣味の登山のおかげかもしれない。
そして最後に春風亭馬堤曲さんがやって来た。
サンダル履きでかなりラフな格好で、
私の地元の友人(元野球部)の昔の姿にかなり似ていて、
少し懐かしい気持ちになった。
その後とある居酒屋に素早く入り、3分の2ぐらいは俳句の話をした。
残る3分の1はちょっと言えない。
まあ…渋谷で○○の△△を××してしまった事とか、
某俳句ユニットと合コンしたいとか、
私は詳しく知らないが、「新宿の殺し屋」という異名を持つ某棋士の話などである。
というか「新宿の殺し屋」は異名というか「そのもの」がいそうで怖い。
その後店を変え、二軒目に向かった。
畦道さんが一番遠方から来られていたので、一足先にお帰りになった。
もっと聞きたい話もあったが、時間というのは無常だ。
そして終電の時間も近くなったのでお開きに。
もちろん次回も近い内に会う約束をした。
どうして君と仲よし仲になったのか僕は解決せずに呑んだ 橋本夢道
会おうと思えば会える句友がいる幸せを噛み締めた夜だった。
他の地域に住む鉄塊衆の方々にもいつかお会いしたい。
ラベル:
雑文
場所:
日本, 東京都新宿区歌舞伎町
2012年7月2日月曜日
第二回 研鑽句会
最高得点句
かなかなよ、おれはなんにもいらない氣がする
最低得点句
富士が雪を着た朝の中学生達である
寂しい海が見えるせのびする
互選集計
(15点)かなかなよ、おれはなんにもいらない氣がする◎◎◎◎◎◎◎○
(4点)何時も米やる雀が覗いて鳴けり◎○○○●
(3点)百姓大きな鍋をみがき月光流るる○○○
(3点)うちへ來る下駄が雪をおとしてゐる◎○
(2点)字引の字が細かくてもう寝よう○○
(2点)栗などむいて夜の長うなった身内ばかり○○
(2点)乞食しかられて出る外は日のぬくし○○
(2点)逞しき犬に曳かれて海見ゆる草原○○
(2点)黙って糸巻く母と夜が長うなった○○
(2点)魚のうろこもまじる銭出して数える○○
(1点)蝉が雀に追はる夕立の後の夕焼○
(1点)聲あるかぎりさけび山にこたへられる○○●
(1点)海風の石切場ですっぱい蜜柑たべてる○
(1点)山をひらく人あり冬の鶏を鳴かせ○
(1点)病人つられゆく強き陽の初夏○
(1点)石くずの中にきざみあげたる佛をすわらせ○
(-1点)冬はしみじみわが貧乏ねずみがかぢる●
(-1点)病みてことしも軒の雀が藁をくはへてきます●
(-1点)海風穏かな初冬の埋立工事●
(-2点)富士が雪を着た朝の中学生達である●●
(-2点)寂しい海が見えるせのびする●●
※特選(◎)2点、並選(○)1点、逆選(●)-1点として集計。
作者発表
【大内一翠朗(1891-1929)】
二つ三つはいろよき杏のつつみを解く
栗などむいて夜の長うなった身内ばかり
寂しい海が見えるせのびする
萩の花ももうしまひの腰かけ
黙って糸巻く母と夜が長うなった
魚のうろこもまじる銭出して数える
【小林 實(1905-1933)】
たにしひろひは唄うでもない霞んでゐる
座って箸とる青うなる庭土の見え
うちへ來る下駄が雪をおとしてゐる
すぐかげるひなたへ消炭ほした
かなかなよ、おれはなんにもいらない氣がする
病みてことしも軒の雀が藁をくはへてきます
【澤木 勅(1907-1928)】
字引の字が細かくてもう寝よう
富士が雪を着た朝の中学生達である
海風穏かな初冬の埋立工事
海風の石切場ですっぱい蜜柑たべてる
逞しき犬に曳かれて海見ゆる草原
はたと停電してしまった火鉢ある
【三留旭洋(1900-1927)】
風鈴音をたて葉ばかりの藤棚
百姓大きな鍋をみがき月光流るる
冬はしみじみわが貧乏ねずみがかぢる
聲あるかぎりさけび山にこたへられる
山をひらく人あり冬の鶏を鳴かせ
石くずの中にきざみあげたる佛をすわらせ
【吉田紫池浪(1902-1921)】
蝉が雀に追はる夕立の後の夕焼
何時も米やる雀が覗いて鳴けり
乞食しかられて出る外は日のぬくし
雨そそぐ大藪を背に陶作り
うれしき犬が青葉の風にふかれもどる
病人つられゆく強き陽の初夏
※五十音順
第二回 鍛練句会
最高得点句
うでをひろげてそらのまね
寒いと一言先輩の彼女
最低得点句
さわやかおばさん自転車の怪異
互選集計
(4点)うでをひろげてそらのまね◎◎
(4点)寒いと一言先輩の彼女◎○○
(3点)仏さんの飯に蠅二匹◎○
(3点)かげろう立つ恋をしそうな影もある路◎○
(3点)次の準急で構わない雛罌粟揺れてる○○○
(3点)子守唄思い出して眠れないニートです○○○
(3点)Uターンおばさん撃たれたみたいに◎○
(3点)ひとりで来た顔をして墓へ○○○
(2点)蚊の音たたく音して蚊の音○○
(2点)夕餉のにおいの間を走る◎
(2点)深夜の道漕ぐ少年四人○○
(2点)ひねもすぐうだらたばこのから箱◎
(1点)躑躅の甘い匂いがして学生はまだ知らないらしい◎●
(1点)恥で済めば安いものだと六十八の父○
(1点)五月雨を殴って気が済むか○
(1点)潰れた毒毛虫の黄色のハラワタ○○●
(1点)萎えてしまった電話だ○○●
(1点)この手のひらを選んでくれた雨粒○
(-1点)鴉の形した咳を闇へ放す○●●
(-1点)アリ影や今となっては面影よ●
(-2点)さわやかおばさん自転車の怪異○●●●
(無点)階下のいびきも朝となった
(無点)ぬるい夜が俺の五感を塞ぐ
(無点)犬、踏切を渡る線路のその先を見た
(無点)前を向けば霧 後ろを向けば闇
(無点)外れ馬券にこやかにやぶる白髪
(無点)姫百合のおしべ取り除けず
※特選(◎)2点、並選(○)1点、逆選(●)-1点として集計。
作者発表
【渋谷知宏】
躑躅の甘い匂いがして学生はまだ知らないらしい
犬、踏切を渡る線路のその先を見た
萎えてしまった電話だ
【白川玄齋】
恥で済めば安いものだと六十八の父
前を向けば霧 後ろを向けば闇
姫百合のおしべ取り除けず
【天坂寝覚】
蚊の音たたく音して蚊の音
かげろう立つ恋をしそうな影もある路
ひとりで来た顔をして墓へ
【中筋祖啓】
さわやかおばさん自転車の怪異
Uターンおばさん撃たれたみたいに
アリ影や今となっては面影よ
【馬場古戸暢】
階下のいびきも朝となった
夕餉のにおいの間を走る
深夜の道漕ぐ少年四人
【藤井雪兎】
うでをひろげてそらのまね
子守唄思い出して眠れないニートです
この手のひらを選んでくれた雨粒
【松田畦道】
五月雨を殴って気が済むか
次の準急で構わない雛罌粟揺れてる
鴉の形した咳を闇へ放す
【春風亭馬堤曲】
寒いと一言先輩の彼女
外れ馬券にこやかにやぶる白髪
ひねもすぐうだらたばこのから箱
【矢野風狂子】
ぬるい夜が俺の五感を塞ぐ
仏さんの飯に蠅二匹
潰れた毒毛虫の黄色のハラワタ
※五十音順
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