2013年10月25日金曜日

中塚一碧楼を読む

今年の夏、中塚一碧楼の句観賞をTwitter上に揚げたのだが、最近になってまとめてみようかと思い立った。改めて読み返すと読みの甘さがどうしても否めない。他の鉄塊衆の意見も聞いてみたいところである。



山このごろ炭焼の煙立たぬ明け暮れ


あの人はどうしているのだろう。顔すら知らない間柄でも、気にかかる人が私にもいる。


この朝うすものを著て佛壇の前にひさしき

何を語りかけているのだろうか。迷い。それとも、決意か。


養老院の櫻電車からいつも見え今日も見えたり

毎日見る光景だが、そこに暮らす人たちにまで思い馳せれば、また違った感慨となるのだろう。


蝋燭のあかりにて見えるこどもの顔

「震災一句」の前書きあり。あの夜と似た夜。だが、私たちの震災はまだ終わらない。


わが顔面の痛き夜の葉柳の家の女と

したたか、かつしなやかな平手打ちであったであろう。


夏貧民の児が引き抱へたる一つのキャベツ

そのキャベツは何人分なのか。はたまた何日分なのか。一碧楼の句にはこうしたいわゆる社会的弱者へ目を向けたものが存在する。人に対する深い眼差しを感じてならない。


桐の花咲き工場頼もしからず工場主

美しい桐の花と頼りない人物との取り合わせ。桐の紋は権威の象徴であるが、どうやらこの工場主にはふさわしくないようだ。とは言え、権威など無くてもいいのかもしれないが。


浅草の夜の酒を飲み水を飲みて夏めく

厭なこと全部、きれいさっぱり忘れちまった。開放的な夏のはじまり。


水をのみこぼしのみこぼし家のかげに

夏の暑い日。よほど喉が渇いていたのだろう。胸元まで濡らした姿が目に浮かぶようだ。


6 件のコメント:

  1. 「浅草の夜の酒を飲み水を飲みて夏めく」、この句のように一碧楼は、「酒と水を飲み」としないで、敢えて「酒を飲み水を飲みて」と動作を分ける書き方を結構するんですよね。私はそこに自由律俳句の可能性を感じます。

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  2. 山このごろ炭焼の煙立たぬ明け暮れ

    こうした景が日常に広がっていたことに、軽い憧れを覚えます。

    可能であれば今後シリーズ化し、一碧楼句の鑑賞を続けていただければ、個人的にとても嬉しいです。

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  3. 雪兎さん

    動作を分けることで連続性や継続性を表現しているんですよね。碧梧桐の“赤い椿白い椿と落ちにけり”を一歩進めた感じでしょうか。確か井泉水も“一句の中に動詞が多く働いているものの方がいい”と言っていましたよね。

    「自由律の可能性」私も同感です。これに限らず、先人たちの句を読み解きながら、一つでも多くを身につけたいものです。

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  4. kotoさん

    私も憧れを覚えます。私はいわゆる日本の近代文学が大好きなもので、俳句もこの辺りものに惹かれてしまいます。

    シリーズ化、実は考えております。kotoさんほどはうまくいかないかと思いますが、こうしてフォローしていただけると幸いです。

    コメントさんきゅう!

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  5. 「浅草の夜の酒を飲み水を飲みて夏めく」。この句は垢ぬけてますね。田舎のぼんぼんが東京へ出てきて初めて触れた浅草の空気。正直な感動を一碧楼は持ち続け、自身も洗練されていったのでしょうね。

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    1. 水名さん

      おっしゃるとおり、まさに直情実感の句ですね。日常における些細な楽しみを、一片の詩として見事に昇華させていると思います。私もこういう句が詠みたいものです。

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