こんにちは。『鉄塊』 会員、畦道です。
創作を排泄に喩える試みというのは度々、されてきたことと思う。たくさん食べたものをぎりぎりまで溜めて、大きくて硬いのを、勢い良く出す。それは文学のみならず芸術全般に通じる極意であろう。ところが、こと俳句に関してはどうか。もりもり食べて、力んで、立派なのを出す。この喩えには、やや違和感がある。ちょっと、頑張りすぎなのではないか。俳句とはもっと、軽やかであるような。
ふと思い出したのが、以前私が関わっていた素人句会で誰かが言ったことだった。
「俳句なんてのは、屁みたいなもんだ」
曰く、音は控えめにさりげなく、すっと出しておいて、ぷーんと匂うのが、品がいいんだ。酒の席ゆえ一同そこでどっと受け、話はそれまでとなった。しかし、その後一人になって考えれば考えるほど、俳句とおならの共通点が、次々に見つかるから困った。
まず、さりげなく匂うのが上品だとして、その反対はどうか。音ばかりブッと大きく、周囲をビックリさせるが、その後には何の匂いも残らない。あえて具体例は挙げないが、ぱっと見の奇抜さを求めるあまり、俳味の欠片もない作というのがこれに当たらないか。
また、音はない代わりに、匂いだけ強烈という場合もある。
この、匂いというのを『俳句的共感』とでも変換してみることにする。詠み手と受け手を繋ぐ、手がかりのようなようなものと考えればいい。この要素が突出しているとは、どういうことか。共感を強く求めすぎて教条的になり、人生訓や標語のようになったりと、そんな句が思い浮かぶ。
声はすれども姿は見えずほんにおまえは屁のような
そんな都々逸がある。このさりげなさこそ俳句の極意であーる、といったら真面目な方は怒りだすだろうか。音と、匂い。この二つの要素の絶妙なる配合が、良句を生むのだ。
……と、綺麗に結論が出たようで、そう一筋縄ではいかないのが、俳句の厄介さであり、楽しさでもある。ここでもう少し、考えなくてはならないのは俳句(=放屁)における『身』の扱いである。
話はいよいよ尾籠になる。放屁の際、ブッと勢い良く放つにせよ、周囲を気遣ってそうっとすかすにせよ、お腹の調子が悪いときなど、ちょっと『身』が出てしまう、ということがよくある。詠み手(=放屁者)が、意識する、しないに関わらず、どうしても洩れてしまう『身』を、どう評価するか。これは俳句を作る上での方向性を決定づける、重要なポイントだ。
『身』とは何か。それは読んで字の如く、おならよりもさらに濃厚な、作句者自身の内奥にあるものである。『自我』、と言い換えてもいいかもしれない。この、抑えようとしてもハミ出してしまった『身』は、俳句の一部なのか、否か。
ある者は、おならと一緒に『身』を出してしまうなど、下品極まりないとする。おならはあくまでもおならであり、『身』で汚れたパンツなど以ての外、パンツは常に清潔であるべし。『身』の存在に対して否定的な姿勢だ。これはいわゆる『伝統俳句』の考え方である。花鳥諷詠客観写生、という清潔なパンツを穿き、品の良い放屁を心がける派だ。
流れ行く大根の葉の早さかな 虚子
ここに『身』らしきものは、一切見あたらない。誤解のなきよう言っておくが、この作句の姿勢を批判しようというのではない。清潔なパンツを穿き、おならのときにはくれぐれも『身』を出さないように気を付ける。これはこれで、立派なことではないか。
一方、この『身』に対して寛容というか、むしろ積極的に出していくくらいでいい、という派もある。心ならずも洩れてしまった『身』を、味わいのひとつとして評価する考え方だ。パンツなんてちょっとぐらい汚れていた方が、人間らしくて結構。それを、人間探究派など称してみたり。
手花火を命継ぐ如燃やすなり 波郷
手に持った花火が燃える。その当たり前の光景を(命継ぐ如)としてしまうのが、『身』の部分である。さりげなく放たれたようで、濃厚に匂う。これぞ人間の営みではないか、俳句かくあるべしと胸を張られたら、反論の言葉を私は持たない。
そして、今頃なんだと怒られるかもしれないが、我等『鉄塊』は、自由律俳句の集団だ。であるからして、本稿でも自由律俳句について、触れないわけにはいかない。
どうしようもないわたしが歩いている 山頭火
音、匂いがどうというよりも、むしろ『身』の方がメインであるような句だ。いわば、パンツ真っ茶色。堂々としたものだ。これぞ自由律俳句の、ひとつの到達点であろう。