2014年2月2日日曜日

怪人・中筋祖啓を読む その一

趣味=すばやさ

はじめて手にした海紅誌において、この句を読んだときの衝撃をいまでも忘れない。若い頃、私は「趣味、けだるさ」を自称していた。だから句意もはっきりと伝わってきたのだ。「まさか、これが句になるとは」正直、やられた感に打ちのめされた。以来、私は祖啓さんの句から目を離せないでいる。ちなみに、表記としては「趣味 すばやさ」と「趣味、すばやさ」もあるようだ。個人的には「趣味、すばやさ」が一番気に入っている。

みんな居るまぶた押し開け見えている

これも私の若い頃を思い出した句。友人の部屋で仲間たちと飲んでいた時だ。眠くなって寝てしまい、ふと目を覚ますと誰々はまだアツく語っている。その光景はまだ夢の中にいるかのようにぼやけているのだ。

手袋に流罪

なぜか手袋の片手の方だけ無くした経験があるのは私だけではないだろう。この句では、それを「流罪」と表現している。一体、どんな罪を犯したのだろうか。そしてもしも片方だけが「流罪」の場合、もう片方はどうなるのだろうか。

蜂の為に止まる

目の前に蜂がいる。相手を刺激しないようゆっくり通ろうとするにも関わらず、なぜか近寄ってきたりと行動が読めず立ち往生してしまうことも。この句を知ってからは、脳裏にこの句が思わず甦ってしまう。こういう句からも祖啓さんの観察眼の鋭さを感じてならない。

森から登場 鳥の陣

一斉に森から飛び立つ鳥の群れを想像した。実際にそういう光景に出くわしたことがあるだけに、容易にイメージできた。しかし、実際には違うのかもしれない。そこが祖啓句の奥ゆかしさなのであろう。


※「海紅」平成二十四年八月号~十月号より

2014年1月30日木曜日

走るうさぎを追いかけて―藤井雪兎を読む

鉄塊鍛錬句会に毎月参加させていただけることは大きな喜びですが、
実はわたしにとっては非常に痛みを伴う行為でもあります。
何故なら、わたし以外の皆さんの句が良すぎるから。
選句表が送られてくる。いそいそと目を通す。
たまに、選句表を見返すのすら恐ろしくなる句があるので困ります。
初見でずきりとする。酷いダメージです。


わたしに酷いダメージを与える詠み手はいつも決まっている。
働猫さんと雪兎さん。
今日は勇気を出して、雪兎さんの作品と向かい合ってみることに致しましょう。
(働猫さんについても、近日中にじっくりと語らせて下さいませ)


最初に気になったのはこちらでした。


たっぷりと血のつまったぼくら笑いころげて


鉄塊入会前のある日のこと。
鉄塊入りたいなー、でも怖い人いるしなーと思って、わたしは言い出せずにおりました。
で、何となく連日、鉄塊ブログをうろうろと見て回っておりまして、そうだ、あの怖い人はどんなん詠んでいるのだろうと思っていたらふとみつけた、という感じでした。


意外。瑞々しい。
ショッキングな始まり。
「たっぷりと血のつまった」が非常にいいです。瑞々しく、傷つき易く、ちょっとの傷が致命傷になりそうなあやうさがありますね。
そんな繊細な「ぼくら」が「笑いころげて」いる。若さということをこれ程端的に言い表した一言を、ほかに知らないなと思いました。
おや、あの非常に怖い人は繊細な人なのか?? と思いました。


で、気になって過去句を漁ります。


そうしてたくさん見ているうちに、この人の本質は「痛み」なのだなと思い至りました。
見ないふりをして過ごしてしまえば楽なことを、敢えて凝視して傷つく。
傷ついても未来を諦めない。
だから吼えているのだなと思いました。


わたしは常々「雪兎さんの句が好き」と公言しておりますが、正直に申し上げると、好きなのかどうかよく分からない。
と、あけすけに申し上げてしまったので、更に正直に言ってしまうと、
拝見すると、余りにも強い痛みを覚えるので恐れている、というのが真実に近い。
グッサリと胸に突き刺さる語群。ダメージが大きいので、本当は見たくないのかもしれない。
でも見てしまうんですよね。気になって仕方がない。
で、気が付けばいつも追い回しているようなあんばいになっているのです。


しかしうさぎはあしがはやい。しかもずっとずっと先を走っている。
こちらはもたもたもたもた、全然追い付ける気配もありませんが、大怪我をしながら、ウォッチを続けたいと思います。


以下に、藤井雪兎作品の中でも特に好きなものを並べておきます。
ご本人は「リアリティを大事にしている」とおっしゃっていましたが、どこかファンタジックでもある、痛みでいっぱいの、瑞々しい感性に震撼していただけたら。


恐れているけど、ちょうくやしがっているんだよオレは!!!
何でこれらを詠んだのがオレじゃないんだ!!


クッソ、うさぎぶったおす


片目の伯父を父は見るなと

うでをひろげてそらのまね

この手のひらを選んでくれた雨粒

稲妻にこの姿見せに行く

全身を口にして黙っている

それぞれのにおいのする金で払っている

たっぷりと血のつまったぼくら笑いころげて

靴擦れを隠して輪に入った

救助された男の目に満月

ひび割れた眼鏡で時間通りに来た

抱きしめられ剃刀の落ちる

この雨は新宿の地下水となる立ち止まる

連作「十年前」
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/10_1484.html



2014年1月25日土曜日

歯 車 (「海紅」平成二十六年新年号 新春譜より)



 歯車がカチッと合わさるような、そんな感触を味わったことがあるだろうか。その歯車がゆっくりと動き始める。それは得も言えぬ恍惚感なのである。
 私は大学の頃、卒業論文に太宰治について書いている。それから年月を経て、昨年までブログに感想文を上げていた。太宰は作品はもとより、その人物像でも有名な作家である。例えば、第一回の芥川賞選考の際には、こんな話がある。
 当時、はじめは太宰の『道化の華』という作品が選考作品として推されていた。しかし、川端康成らにより『逆行』という、彼の別の作品が選考作品として挙げられてしまう。その理由として、彼の私生活に問題ありとの選評が、川端康成により為されたのだ。結果、太宰は芥川賞を落選した。
 これを読んだ太宰は『川端康成へ』という文章でもって、猛烈な抗議を試みる。作品ではなく私生活に目を向けられたのが悔しかったのであろう。川端康成はこれを受け前言の撤回を文章にて表わし、両者に一応の和解が成立するのであった。
 これらの事柄は、現在ならインターネットで少し調べればすぐに知ることができる。だが、私が卒論を書いていた頃は、図書館へ通ったり、古本屋で資料を購入したものだった。そんな中、ずっと胸に引っ掛かっていた文章がある。
 “ガッチリした短篇。芥川式の作風”
 これは選考作品となった『逆行』の選評である。実は当時の私はこの作品があまり良いとは思えなかった。だから、この選評についても頷けないものがあった。
 しかしながら、昨年になって再び『逆行』を読み返した時、すっきりとした文体に、実は深いテーマを描いていることに気が付いた。これには、私自身が年齢を重ねたことも一因しているのであろう。 約20年の歳月を経て、あの選評の意味がようやく理解できた気がした。
 そこで、久しぶりにそれが書かれてあった資料に目を通し、この評を書いた人物の名を確認した。すると、そこには、瀧井孝作と書かれてあった……。
――カチッ
 そのとき、私のなかで、歯車が合わさるのを感じた。瀧井孝作。そう、碧梧桐の元で一碧楼とともに、海紅の編集に携わった先達である。
 と、まあ、こんな感じで昨年は新春譜を書こうと思っていたのだが、時間が無くて仕上げられなかった。そこで今年こそは、と思ってはみたものの、どうも続きが書けない。
 ところで、私はTwitterをやっているのだが、そこには毎日、季語を一つ紹介して下さる方がいる。その季語を用いて、多くの人が句作するのを楽しんでいるのだ。私も時折、定型句を作る機会として活用している。
 11月の、とある日曜日のことである。その日、私はTwitterからの季語で句作をしながら、以前から行きたかった古本屋へと車を走らせた。
 そこでは俳句関連の書が地下に置かれてあり、私はお宝を求める海賊のような気分で階段を降りていった。迷路のように入り組んだフロアの中頃、ようやく見つけたお目当ての棚には、富安風生や中村草田男などの句集が並んでいた。足元には段ボールが置かれてあり、棚からはみ出したものがそこに無造作に詰められている。
 ひと通り棚を見終わった後、私はその段ボールの中を物色し始めた。ここにお宝が眠っているかもしれない。丹念に箱の中を覗く。すると、一冊の句集が目に入った。そこには『瀧井孝作全句集』と書かれてあった……。
――カチッ
 そのとき、また私のなかで、歯車が合わさるのを感じた。その日の季語は「浮寝鳥」であった。瀧井先生の句集の名でもある。
 店を出て、車のエンジンをかける私の横顔は、恍惚とした表情を浮かべていたに違いない。助手席には一冊の句集。軽くアクセルを踏むと、車はゆっくりと動き始めた。