2014年1月25日土曜日

歯 車 (「海紅」平成二十六年新年号 新春譜より)



 歯車がカチッと合わさるような、そんな感触を味わったことがあるだろうか。その歯車がゆっくりと動き始める。それは得も言えぬ恍惚感なのである。
 私は大学の頃、卒業論文に太宰治について書いている。それから年月を経て、昨年までブログに感想文を上げていた。太宰は作品はもとより、その人物像でも有名な作家である。例えば、第一回の芥川賞選考の際には、こんな話がある。
 当時、はじめは太宰の『道化の華』という作品が選考作品として推されていた。しかし、川端康成らにより『逆行』という、彼の別の作品が選考作品として挙げられてしまう。その理由として、彼の私生活に問題ありとの選評が、川端康成により為されたのだ。結果、太宰は芥川賞を落選した。
 これを読んだ太宰は『川端康成へ』という文章でもって、猛烈な抗議を試みる。作品ではなく私生活に目を向けられたのが悔しかったのであろう。川端康成はこれを受け前言の撤回を文章にて表わし、両者に一応の和解が成立するのであった。
 これらの事柄は、現在ならインターネットで少し調べればすぐに知ることができる。だが、私が卒論を書いていた頃は、図書館へ通ったり、古本屋で資料を購入したものだった。そんな中、ずっと胸に引っ掛かっていた文章がある。
 “ガッチリした短篇。芥川式の作風”
 これは選考作品となった『逆行』の選評である。実は当時の私はこの作品があまり良いとは思えなかった。だから、この選評についても頷けないものがあった。
 しかしながら、昨年になって再び『逆行』を読み返した時、すっきりとした文体に、実は深いテーマを描いていることに気が付いた。これには、私自身が年齢を重ねたことも一因しているのであろう。 約20年の歳月を経て、あの選評の意味がようやく理解できた気がした。
 そこで、久しぶりにそれが書かれてあった資料に目を通し、この評を書いた人物の名を確認した。すると、そこには、瀧井孝作と書かれてあった……。
――カチッ
 そのとき、私のなかで、歯車が合わさるのを感じた。瀧井孝作。そう、碧梧桐の元で一碧楼とともに、海紅の編集に携わった先達である。
 と、まあ、こんな感じで昨年は新春譜を書こうと思っていたのだが、時間が無くて仕上げられなかった。そこで今年こそは、と思ってはみたものの、どうも続きが書けない。
 ところで、私はTwitterをやっているのだが、そこには毎日、季語を一つ紹介して下さる方がいる。その季語を用いて、多くの人が句作するのを楽しんでいるのだ。私も時折、定型句を作る機会として活用している。
 11月の、とある日曜日のことである。その日、私はTwitterからの季語で句作をしながら、以前から行きたかった古本屋へと車を走らせた。
 そこでは俳句関連の書が地下に置かれてあり、私はお宝を求める海賊のような気分で階段を降りていった。迷路のように入り組んだフロアの中頃、ようやく見つけたお目当ての棚には、富安風生や中村草田男などの句集が並んでいた。足元には段ボールが置かれてあり、棚からはみ出したものがそこに無造作に詰められている。
 ひと通り棚を見終わった後、私はその段ボールの中を物色し始めた。ここにお宝が眠っているかもしれない。丹念に箱の中を覗く。すると、一冊の句集が目に入った。そこには『瀧井孝作全句集』と書かれてあった……。
――カチッ
 そのとき、また私のなかで、歯車が合わさるのを感じた。その日の季語は「浮寝鳥」であった。瀧井先生の句集の名でもある。
 店を出て、車のエンジンをかける私の横顔は、恍惚とした表情を浮かべていたに違いない。助手席には一冊の句集。軽くアクセルを踏むと、車はゆっくりと動き始めた。


4 件のコメント:

  1. 私もこのような経験があります。
    歯車はいくつか合わさってようやく動き出すんですよね。
    後から考えるとそうした積み重ねが必ずありました。

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  2. それにしても面白い偶然です。必然なのかもしれません。
    きっといつかはじまるであろう、「瀧井孝作を読む」シリーズを楽しみにしております。

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  3. 雪兎さん
    コメントありがとうございます。
    昔コツコツ積み重ねていたことが意外な場面で花開くこともあります。
    やはりその時も歯車がいくつか合わさった結果なのでしょうね。

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  4. kotoさん
    コメントありがとうございます。
    必然だといいですよね。おっしゃる通り、これは「瀧井孝作を読む」シリーズの序章に過ぎないのかもしれません。それにはもう少し歯車の数が必要ですが(笑)

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