天坂寝覚
さて、この度勝手に『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』と題した文章を記させていただく訳ですが、第一回、第二回と鍛錬・研鑽両句会が滞り無く終了しまして、今は第三回選句の真っ只中。
その最中に今更第一回を採り上げてどうすんだ、第三回の選句をしろ、句を詠め、とおっしゃる向きもおありかとは思います。
とは言え。
今回こういった形で鉄塊衆の皆さんの句が集まり、そしてそれに触れる事が出来たわけですが、この会の性質上、解釈・感想といったものはどうしても各選に採った句の分しか伝えられません。(別途コメントで言えばいいだけという気もしますが)
ですが、採らなかった句を全く読まなかったのか、自分なりの解釈、感想がなかったのか、というとこれは勿論、否です。加えて、選句を終えてから新たな解釈に気付いたり、新たな感想が生まれることもありますし、そしてそういう事が起こるだけの時間も経過しました。
そうした中で、どうせなら全ての句の感想・解釈を伝えたいという、よく言えば情熱、悪く言えば僕のエゴ、ついでに言うならもったいない精神と些細な自己顕示欲、さらには読んでるんですよ参加してますよアピールが結晶化し、今回こういったことを勝手にさせていただく運びと相成ったわけです。
とはいえ先述した通り、僕の情熱・エゴ・その他諸々からスタートしている文章ですので、各句によせる感想・解釈には作者の方が意図していないものも多々あろうと思います。
が、それらはあくまでも「僕の」感想・解釈です。しかも恐らく(間違いなく?)暴走しています。
ですから、そういったところに異論・反論・オブジェクションがございましたら是非とも包み隠さず、全力でぶつけて頂きたいと思っている次第です。その方が僕の為にもなりますので、何卒よろしくお願い致します。
といったところまで来て、前置き・言い訳がずいぶん長くなってしまったことに気が付きました。
それでは、甚だ僭越ながら天坂寝覚による『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』
始めさせていただきます。
(※句の順列は五十音順です。)
意を決して出るあたたかい雨だ
まずは読んで字の如く、です。
雨と言えば冷たい。
その先入観を基に覚悟して雨中に出たら存外そんなことはなく、あたたかかった。
そこには小さな発見があり、そしてとても平和です。
けれどその印象は、『あたたかい』という部分にフォーカスを当てるから生まれるのだろう、と僕は思いました。
それなら、他の部分では?
その場合の対象は『意を決して出る』の、特に『意を決して』の部分でしょう。
続く『あたたかい』から推測するに、この言葉は降る雨の冷たさを想定してのものと言えます。
しかし、意を決さなければいけないような雨です。
ならば普通は傘を差すでしょうし、僕ならそうします。
けれど句の主人公は『あたたかい雨』に気付く。つまりは傘を差していない。
では、と考えてゆくと、この主人公は「雨に打たれたい」のだと思うのです。
それも、意を決する必要があるほどの冷たい雨に。
しかし、結果として主人公に降ったのは、望んだような冷たい雨ではなく、あたたかい雨。
僕はそこに、主人公の小さな落胆を見ました。
貸した本から落ちて陰毛
貸した本から落ちるものがあって、それは陰毛だった。
文章にしてしまえばどうということは無く、男同士で貸し借りをすればままあることなのですが、そうは言っても常に疑問符が付きまとう光景にして出来事です。
あいにく僕は女性とものの貸し借りをしたことが無いので、相手が女性であってもこの光景が生まれるのかどうかは知らないのですが(できれば生まれないことを望んでいますが)、この句はそうしたことを差し引いても、男の男による男のための「ちょっと笑えて、ちょっとサビシイ」句だな、と思います。
ただ、『落ちて』という言い方に少し引っかかり、喉越しの悪さみたいなものを感じました。
陰毛の句で喉越しと言ってしまうのは、我ながらどうかとは思いますが。
片目の伯父を父は見るなと
具体的な説明はなく、ただ「触れ得ざるもの」として遠ざける。
それは親のエゴであり、優しさでしょう。そうした親の気持ちをこの句の『父』には感じました。
そして、そのエゴと優しさは、兄弟のそれとして伯父にも向けられているのでしょう。
主人公はそのエゴと優しさ、自分に向けられたものと伯父に向けられたもの、それらのどちらかではなくどちらも。つまり父の気持ちを全て受け取ったのではないでしょうか。
『見るなと』という終わりに感じる強さと、それでありながら宙に浮いてしまっているような感じ。
それは、そうした父の気持ちを全て受け取ったが故に真っ向から反発出来ない、さりとて全面的に肯定も出来ないという、自身の気持ちの着地点の定まらなさ。
その表れではないか、と僕は見ました。
そしてその不安定感が、伯父に対しては気まずさとなって表れているのだろう、と。
その定まらなさ、気まずさはとても人間的で、それ故にとてもやさしいと思います。
今日からニートの女と歩く
こうしている瞬間にも『今日からニートの女』は生まれているでしょうし、歩いているでしょう。
そうした意味と、『ニート』という言葉から現代的な句だな、というのがまず初めの印象でした。
その印象を得て、『今日から』と『ニートの女』という言葉の組み合わせをしばらく眺めていたのですが、そうするうちに、この『女』とは「子育てを終えた女性」を指した言葉ではないか、という発想が生まれました。
であれば、と考えてゆくと、わざわざ『ニート』と呼んでしまう、女への気持ちを素直に表せない男の照れが見え、そしてそうした照れを抱えながらその『女と歩く』。
きっと、ずっと歩いていく。
一組の夫婦の、夫視点からのドラマ、その中の老境の二人によるシーンが見えました。
そういうドラマ、僕は好きです。(多分にロマンチックな解釈だとは思いますが。 )
春の雨の軒下の知らない猫と居る
「『の』の使い方に少し引っかかりを感じました。恐らく響きを重視したんではないかと思うのですが、かえってそこのところでうまく飲み込めませんでした。」(第一回句会選句理由より。)
と、いったことを書いた後に作者さんから「コマ送り」というヒントをいただいて、それでこの句の見方をつかんだのですが、そうするとコマ送りというよりももっと動画的な句だな、という感想を持ちました。
春の雨がまず遠景で映り、それから軒下を外から映した引きの画に切り替わり、そして軒下の内にいる私の目線で『知らない猫』が映り、最後に軒下の内から見た雨が映る。
その一連の景色は物憂げで、静かで、そして私も猫も互いに干渉しないが為に少し気まずい。
それ故にか、それにも拘らずか、景色全体を通しての印象はとても穏やか。
景色の描写と、私の心情が渾然となった句だと今は思います。
春の麗らの万年床の下のカビ
『春の麗ら』という美しさに、『万年床の下のカビ』という不快が続く。
その美醜の対比に加えて、春という入れ替わる、移り変わるものに、万年床という不動性をもつものが直面することで、よりいっそう万年床の主の物臭さ、ズボラさが際立って感じられました。
これぞまさしく男の一人暮らし。恋人やそれに準ずる女性の存在は微塵も感じ取れません。
とは言え『春の麗ら』という言葉、言い回しには、そういう存在を求めている雰囲気も感じます。
なれば、まずは布団を干して、カビを掃除するところから、と言いたいところですが、きっとこの万年床の主はそういう努力はしない気がします。なんせ僕がそうでしたし、そうですし。
ひみつ基地に妹忍び込んでいた
これはもう『ひみつ基地』という言葉の勝利だと思います。
もちろんそれだけではないのですが、この句から感じる幼さ、小児性は、やはり『ひみつ基地』という言葉が決定打となっている、と思うのです。
そこの所に重きを置くと「ひみつきち」と全て平仮名で表記しても良さそうですが、それだと幼過ぎ、あざと過ぎる感じもしますし、「ひみつき地」では言葉として見難い。
やはり『ひみつ基地』が、言葉の映りと、込められたニュアンス(難しい文字、漢字=格好いい、とする少年期の風潮)のバランスが丁度良く取れた表記なのかな、と思います。
句としては『ひみつ基地』という男子を象徴するものに、女子という異物である妹が入り込んでいることの緊張と、そしてそれを見つけた兄と、見つけられた妹との間に一瞬生まれた緊張。
けれど『いた』と過去形で終わっていますから、それらの緊張は「なんだ妹(お兄ちゃん)か」という安堵に既に切り替わって、緩和になっている。
その緊張と緩和が句の持つ小児性と相俟って、とてもほほえましい句になっていると思います。
そのほほえましさに僕は郷愁も覚えましたが、そこは個人差あるところでしょうね。
貧乏を揺すって桜を見上げる
これはちょっと、未だにうまく飲み込めないでいる句です。
『貧乏を揺すって』という言葉をまずはそのまま貧乏揺すりと見たのですが、それと『桜を見上げる』がどうしてもスムーズに繋げられない。
実景であると言われれば、それはまあそれで納得できなくもないのですが、それならそのまま貧乏揺すりでいい気もしますし、うーん。
あるいは本当に言葉どおり『貧乏を揺すって』いるのでしょうか。
が、そうなると今度は『貧乏』がなんなのかがつかめない。
身体なのか、財布なのか、精神なのか、あるいは自分ではない貧乏な誰かなのか。
はたまたそれらを包括する、観念としての貧乏なのか。
僕もいくらかは貧乏を嗜んできたつもりですが、それでもこの句における『貧乏』をつかめませんでした。
こういうことを言ってしまっては句の鑑賞態度として失格だろうと思うのですが、どうにもわからない句だな、というのが今のところの感想です。
本当に、申し訳ないの一言。
ふらふらと来て故郷の空き家の荒れ草
句を一見してまず浮かんだのは、杜甫の五言律詩「春望」でした。
あそこまで劇的な感情ではないのかもしれませんが、それでも根底に流れる寂しさ、哀しさは同様のものなのではないでしょうか。
『故郷の空き家』が指す家が、かつて自分が住んだ家なのか、親しい誰かが住んでいた家なのか、あるいは全く見ず知らずの誰かの家なのかは判りかねますが、『ふらふらと来て』という事ですから何かしらの当てがあってのことで、そうすると見ず知らずということはないですね。
ともかく、そうして来た家は空き家になっていて、荒れ草が繁るほど捨て置かれていた。
そうなってしまえばそれはもう故郷ではなく、故郷だった場所であり、もはや故郷の喪失といっても過言ではないでしょう。その喪失感、寂寥感たるや、いっそ恐ろしくすらあります。
そこに比較対象として荒れ草の生命力が現れて、まさに駄目押し。
それでも寂しさ、哀しさがいくらか抑制されているように感じるのは、『ふらふらと来て』いる自らの心情の曖昧さ、不明瞭さが故なのでしょうか。それがまた哀しさを深めます。
ポンと出た月がまあるい
『ポン』というオノマトペが、より月のまるさ、もとい、まあるさを実感させます。
どういう状況だと月がポンと出てくるのか分かりませんが、恐らくは不意に見た月なのでしょう。
そうして見た月が『まあるい』ことで生まれる喜び。
それは小さなものですが、その日一日を全て「いい一日」に変えてしまうだけの力があります。
と、色々言ってはみましたがこの句に関しては解釈もへったくれもなく、そのものをそのまま味わうべきで、その感想はと言えば、幸福なひと時をありがとう。それに尽きます。
マルクスの詩集だよかわいいね
『マルクスの詩集』というものがよく分からず、鑑賞の前にまずググってみたのですが、このマルクスはあの資本論のマルクスなんですね。
それを踏まえてこの句を読んだのですが、そうするとこの句で言う『かわいい』は上から目線の言葉というか、精一杯大人ぶろうと背伸びしている子供に向けての『かわいい』なのかな、と思いました。
ならばそれは『マルクスの詩集』そのものへではなく、それを読む誰かに向けてだろう、とも。
わざわざマルクスの、それも詩集を選んで読むくらいですからその誰かはきっと思春期も思春期、それも、ちょっと捻くれた思春期の真っ只中だろうなと思うのですが、そうした思春期の只中に居る誰かと、既に思春期を通り過ぎて「今マルクスの詩集を読んでいる誰か」を『かわいいね』と評している私。
両者には確かな差異があります。
けれどもその差異は、両者が断絶しているから生まれたのではなく、しっかりと地続きであるが故に生まれた差異なのではないでしょうか。
でなければ『かわいい』と評することは出来ないはずで、つまりは私もまた、ちょっと捻くれた思春期を過ごしてきたのでしょう。
それを踏まえて改めて句を読んでみると、この『かわいい』は上から目線というよりも、いつか来た道を振り返って、その道を今歩いている誰かを見たときの、その眼差しの優しさの表れに思えてきます。
そしてその優しさは、その誰かに在りし日の自分を見るが故なのでしょう。
僕が10代、思春期真っ只中であったなら、反発しそうなくらいに大人びた句だと思います。
(大人びてるも何も、鉄塊衆はみなさん大人なんですが。)
道暗くやけに黄色の濃い満月だ
先に出た『春の雨の~』の句を僕は動画的だと評しましたが、この句はその逆、または対で、見事なまでに静止画、写真的、絵画的な句だと思います。
分かるとか、分からないとかいった解釈の余地を作らず(無いわけでは無いですが)、ただ句という形で描かれた景色が見えるか、見えないか。
そして見えたならば、その景色が好きか嫌いかという、句によって喚起されるイメージ、ビジュアルでの直球勝負。
他の句は大なり小なり「私」が句の内に見えましたが、この句に関しては「私」は完全に句の外にいて、この景色を選んだということを以って「私」の表れとしているのでしょう。
恐らくそれは意図してのことだと思うのですが、もしそうならばその意図は、少なくとも僕に対しては完全に通じました。この句に解釈を持ち込むのは、野暮というものでしょう。
ちなみに僕に見えたこの句のビジュアルは、殆ど黒に近い藍色で塗りつぶされたキャンバスに、それよりはわずかに明るい藍色で描かれた家並や道、そして天に座す鮮やかを通り越してもはや毒々しいまでに黄色い満月。といった具合で、僕はその画にやられてしまいました。
今後の句会においても、一つくらいはこういうビジュアル勝負の句があると嬉しいです。
以上、第一回鍛錬句会の投句全15句から、僕の投句3句を抜きまして全12句。
その解釈・感想をもって『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』とさせて頂きます。
ありがとうございました。
さて、この度勝手に『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』と題した文章を記させていただく訳ですが、第一回、第二回と鍛錬・研鑽両句会が滞り無く終了しまして、今は第三回選句の真っ只中。
その最中に今更第一回を採り上げてどうすんだ、第三回の選句をしろ、句を詠め、とおっしゃる向きもおありかとは思います。
とは言え。
今回こういった形で鉄塊衆の皆さんの句が集まり、そしてそれに触れる事が出来たわけですが、この会の性質上、解釈・感想といったものはどうしても各選に採った句の分しか伝えられません。(別途コメントで言えばいいだけという気もしますが)
ですが、採らなかった句を全く読まなかったのか、自分なりの解釈、感想がなかったのか、というとこれは勿論、否です。加えて、選句を終えてから新たな解釈に気付いたり、新たな感想が生まれることもありますし、そしてそういう事が起こるだけの時間も経過しました。
そうした中で、どうせなら全ての句の感想・解釈を伝えたいという、よく言えば情熱、悪く言えば僕のエゴ、ついでに言うならもったいない精神と些細な自己顕示欲、さらには読んでるんですよ参加してますよアピールが結晶化し、今回こういったことを勝手にさせていただく運びと相成ったわけです。
とはいえ先述した通り、僕の情熱・エゴ・その他諸々からスタートしている文章ですので、各句によせる感想・解釈には作者の方が意図していないものも多々あろうと思います。
が、それらはあくまでも「僕の」感想・解釈です。しかも恐らく(間違いなく?)暴走しています。
ですから、そういったところに異論・反論・オブジェクションがございましたら是非とも包み隠さず、全力でぶつけて頂きたいと思っている次第です。その方が僕の為にもなりますので、何卒よろしくお願い致します。
といったところまで来て、前置き・言い訳がずいぶん長くなってしまったことに気が付きました。
それでは、甚だ僭越ながら天坂寝覚による『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』
始めさせていただきます。
(※句の順列は五十音順です。)
意を決して出るあたたかい雨だ
まずは読んで字の如く、です。
雨と言えば冷たい。
その先入観を基に覚悟して雨中に出たら存外そんなことはなく、あたたかかった。
そこには小さな発見があり、そしてとても平和です。
けれどその印象は、『あたたかい』という部分にフォーカスを当てるから生まれるのだろう、と僕は思いました。
それなら、他の部分では?
その場合の対象は『意を決して出る』の、特に『意を決して』の部分でしょう。
続く『あたたかい』から推測するに、この言葉は降る雨の冷たさを想定してのものと言えます。
しかし、意を決さなければいけないような雨です。
ならば普通は傘を差すでしょうし、僕ならそうします。
けれど句の主人公は『あたたかい雨』に気付く。つまりは傘を差していない。
では、と考えてゆくと、この主人公は「雨に打たれたい」のだと思うのです。
それも、意を決する必要があるほどの冷たい雨に。
しかし、結果として主人公に降ったのは、望んだような冷たい雨ではなく、あたたかい雨。
僕はそこに、主人公の小さな落胆を見ました。
貸した本から落ちて陰毛
貸した本から落ちるものがあって、それは陰毛だった。
文章にしてしまえばどうということは無く、男同士で貸し借りをすればままあることなのですが、そうは言っても常に疑問符が付きまとう光景にして出来事です。
あいにく僕は女性とものの貸し借りをしたことが無いので、相手が女性であってもこの光景が生まれるのかどうかは知らないのですが(できれば生まれないことを望んでいますが)、この句はそうしたことを差し引いても、男の男による男のための「ちょっと笑えて、ちょっとサビシイ」句だな、と思います。
ただ、『落ちて』という言い方に少し引っかかり、喉越しの悪さみたいなものを感じました。
陰毛の句で喉越しと言ってしまうのは、我ながらどうかとは思いますが。
片目の伯父を父は見るなと
具体的な説明はなく、ただ「触れ得ざるもの」として遠ざける。
それは親のエゴであり、優しさでしょう。そうした親の気持ちをこの句の『父』には感じました。
そして、そのエゴと優しさは、兄弟のそれとして伯父にも向けられているのでしょう。
主人公はそのエゴと優しさ、自分に向けられたものと伯父に向けられたもの、それらのどちらかではなくどちらも。つまり父の気持ちを全て受け取ったのではないでしょうか。
『見るなと』という終わりに感じる強さと、それでありながら宙に浮いてしまっているような感じ。
それは、そうした父の気持ちを全て受け取ったが故に真っ向から反発出来ない、さりとて全面的に肯定も出来ないという、自身の気持ちの着地点の定まらなさ。
その表れではないか、と僕は見ました。
そしてその不安定感が、伯父に対しては気まずさとなって表れているのだろう、と。
その定まらなさ、気まずさはとても人間的で、それ故にとてもやさしいと思います。
今日からニートの女と歩く
こうしている瞬間にも『今日からニートの女』は生まれているでしょうし、歩いているでしょう。
そうした意味と、『ニート』という言葉から現代的な句だな、というのがまず初めの印象でした。
その印象を得て、『今日から』と『ニートの女』という言葉の組み合わせをしばらく眺めていたのですが、そうするうちに、この『女』とは「子育てを終えた女性」を指した言葉ではないか、という発想が生まれました。
であれば、と考えてゆくと、わざわざ『ニート』と呼んでしまう、女への気持ちを素直に表せない男の照れが見え、そしてそうした照れを抱えながらその『女と歩く』。
きっと、ずっと歩いていく。
一組の夫婦の、夫視点からのドラマ、その中の老境の二人によるシーンが見えました。
そういうドラマ、僕は好きです。(多分にロマンチックな解釈だとは思いますが。 )
春の雨の軒下の知らない猫と居る
「『の』の使い方に少し引っかかりを感じました。恐らく響きを重視したんではないかと思うのですが、かえってそこのところでうまく飲み込めませんでした。」(第一回句会選句理由より。)
と、いったことを書いた後に作者さんから「コマ送り」というヒントをいただいて、それでこの句の見方をつかんだのですが、そうするとコマ送りというよりももっと動画的な句だな、という感想を持ちました。
春の雨がまず遠景で映り、それから軒下を外から映した引きの画に切り替わり、そして軒下の内にいる私の目線で『知らない猫』が映り、最後に軒下の内から見た雨が映る。
その一連の景色は物憂げで、静かで、そして私も猫も互いに干渉しないが為に少し気まずい。
それ故にか、それにも拘らずか、景色全体を通しての印象はとても穏やか。
景色の描写と、私の心情が渾然となった句だと今は思います。
春の麗らの万年床の下のカビ
『春の麗ら』という美しさに、『万年床の下のカビ』という不快が続く。
その美醜の対比に加えて、春という入れ替わる、移り変わるものに、万年床という不動性をもつものが直面することで、よりいっそう万年床の主の物臭さ、ズボラさが際立って感じられました。
これぞまさしく男の一人暮らし。恋人やそれに準ずる女性の存在は微塵も感じ取れません。
とは言え『春の麗ら』という言葉、言い回しには、そういう存在を求めている雰囲気も感じます。
なれば、まずは布団を干して、カビを掃除するところから、と言いたいところですが、きっとこの万年床の主はそういう努力はしない気がします。なんせ僕がそうでしたし、そうですし。
ひみつ基地に妹忍び込んでいた
これはもう『ひみつ基地』という言葉の勝利だと思います。
もちろんそれだけではないのですが、この句から感じる幼さ、小児性は、やはり『ひみつ基地』という言葉が決定打となっている、と思うのです。
そこの所に重きを置くと「ひみつきち」と全て平仮名で表記しても良さそうですが、それだと幼過ぎ、あざと過ぎる感じもしますし、「ひみつき地」では言葉として見難い。
やはり『ひみつ基地』が、言葉の映りと、込められたニュアンス(難しい文字、漢字=格好いい、とする少年期の風潮)のバランスが丁度良く取れた表記なのかな、と思います。
句としては『ひみつ基地』という男子を象徴するものに、女子という異物である妹が入り込んでいることの緊張と、そしてそれを見つけた兄と、見つけられた妹との間に一瞬生まれた緊張。
けれど『いた』と過去形で終わっていますから、それらの緊張は「なんだ妹(お兄ちゃん)か」という安堵に既に切り替わって、緩和になっている。
その緊張と緩和が句の持つ小児性と相俟って、とてもほほえましい句になっていると思います。
そのほほえましさに僕は郷愁も覚えましたが、そこは個人差あるところでしょうね。
貧乏を揺すって桜を見上げる
これはちょっと、未だにうまく飲み込めないでいる句です。
『貧乏を揺すって』という言葉をまずはそのまま貧乏揺すりと見たのですが、それと『桜を見上げる』がどうしてもスムーズに繋げられない。
実景であると言われれば、それはまあそれで納得できなくもないのですが、それならそのまま貧乏揺すりでいい気もしますし、うーん。
あるいは本当に言葉どおり『貧乏を揺すって』いるのでしょうか。
が、そうなると今度は『貧乏』がなんなのかがつかめない。
身体なのか、財布なのか、精神なのか、あるいは自分ではない貧乏な誰かなのか。
はたまたそれらを包括する、観念としての貧乏なのか。
僕もいくらかは貧乏を嗜んできたつもりですが、それでもこの句における『貧乏』をつかめませんでした。
こういうことを言ってしまっては句の鑑賞態度として失格だろうと思うのですが、どうにもわからない句だな、というのが今のところの感想です。
本当に、申し訳ないの一言。
ふらふらと来て故郷の空き家の荒れ草
句を一見してまず浮かんだのは、杜甫の五言律詩「春望」でした。
あそこまで劇的な感情ではないのかもしれませんが、それでも根底に流れる寂しさ、哀しさは同様のものなのではないでしょうか。
『故郷の空き家』が指す家が、かつて自分が住んだ家なのか、親しい誰かが住んでいた家なのか、あるいは全く見ず知らずの誰かの家なのかは判りかねますが、『ふらふらと来て』という事ですから何かしらの当てがあってのことで、そうすると見ず知らずということはないですね。
ともかく、そうして来た家は空き家になっていて、荒れ草が繁るほど捨て置かれていた。
そうなってしまえばそれはもう故郷ではなく、故郷だった場所であり、もはや故郷の喪失といっても過言ではないでしょう。その喪失感、寂寥感たるや、いっそ恐ろしくすらあります。
そこに比較対象として荒れ草の生命力が現れて、まさに駄目押し。
それでも寂しさ、哀しさがいくらか抑制されているように感じるのは、『ふらふらと来て』いる自らの心情の曖昧さ、不明瞭さが故なのでしょうか。それがまた哀しさを深めます。
ポンと出た月がまあるい
『ポン』というオノマトペが、より月のまるさ、もとい、まあるさを実感させます。
どういう状況だと月がポンと出てくるのか分かりませんが、恐らくは不意に見た月なのでしょう。
そうして見た月が『まあるい』ことで生まれる喜び。
それは小さなものですが、その日一日を全て「いい一日」に変えてしまうだけの力があります。
と、色々言ってはみましたがこの句に関しては解釈もへったくれもなく、そのものをそのまま味わうべきで、その感想はと言えば、幸福なひと時をありがとう。それに尽きます。
マルクスの詩集だよかわいいね
『マルクスの詩集』というものがよく分からず、鑑賞の前にまずググってみたのですが、このマルクスはあの資本論のマルクスなんですね。
それを踏まえてこの句を読んだのですが、そうするとこの句で言う『かわいい』は上から目線の言葉というか、精一杯大人ぶろうと背伸びしている子供に向けての『かわいい』なのかな、と思いました。
ならばそれは『マルクスの詩集』そのものへではなく、それを読む誰かに向けてだろう、とも。
わざわざマルクスの、それも詩集を選んで読むくらいですからその誰かはきっと思春期も思春期、それも、ちょっと捻くれた思春期の真っ只中だろうなと思うのですが、そうした思春期の只中に居る誰かと、既に思春期を通り過ぎて「今マルクスの詩集を読んでいる誰か」を『かわいいね』と評している私。
両者には確かな差異があります。
けれどもその差異は、両者が断絶しているから生まれたのではなく、しっかりと地続きであるが故に生まれた差異なのではないでしょうか。
でなければ『かわいい』と評することは出来ないはずで、つまりは私もまた、ちょっと捻くれた思春期を過ごしてきたのでしょう。
それを踏まえて改めて句を読んでみると、この『かわいい』は上から目線というよりも、いつか来た道を振り返って、その道を今歩いている誰かを見たときの、その眼差しの優しさの表れに思えてきます。
そしてその優しさは、その誰かに在りし日の自分を見るが故なのでしょう。
僕が10代、思春期真っ只中であったなら、反発しそうなくらいに大人びた句だと思います。
(大人びてるも何も、鉄塊衆はみなさん大人なんですが。)
道暗くやけに黄色の濃い満月だ
先に出た『春の雨の~』の句を僕は動画的だと評しましたが、この句はその逆、または対で、見事なまでに静止画、写真的、絵画的な句だと思います。
分かるとか、分からないとかいった解釈の余地を作らず(無いわけでは無いですが)、ただ句という形で描かれた景色が見えるか、見えないか。
そして見えたならば、その景色が好きか嫌いかという、句によって喚起されるイメージ、ビジュアルでの直球勝負。
他の句は大なり小なり「私」が句の内に見えましたが、この句に関しては「私」は完全に句の外にいて、この景色を選んだということを以って「私」の表れとしているのでしょう。
恐らくそれは意図してのことだと思うのですが、もしそうならばその意図は、少なくとも僕に対しては完全に通じました。この句に解釈を持ち込むのは、野暮というものでしょう。
ちなみに僕に見えたこの句のビジュアルは、殆ど黒に近い藍色で塗りつぶされたキャンバスに、それよりはわずかに明るい藍色で描かれた家並や道、そして天に座す鮮やかを通り越してもはや毒々しいまでに黄色い満月。といった具合で、僕はその画にやられてしまいました。
今後の句会においても、一つくらいはこういうビジュアル勝負の句があると嬉しいです。
以上、第一回鍛錬句会の投句全15句から、僕の投句3句を抜きまして全12句。
その解釈・感想をもって『「第一回鍛錬句会」を全部読む。』とさせて頂きます。
ありがとうございました。
寝覚さん
返信削除こんばんは。
第1回句会の句を改めて読む。
読み応えがありましたよ。
第1回と言わず、第2回、第3回と続けて下さい!
僕の句だけで言うと、
春の雨〜の句は、確かに動画的ですね。
コマ送りと申しましたが、景色を順に見せたいだけで、動画でも全く問題ないです。
意を決して出る〜の句の解釈は面白い。
僕の気づいていない心理を読まれた気になりました。
同じ鉄塊衆として、またよろしくお願いします。
お疲れさまでした!
渋谷さん
削除こんばんは。
我ながら肩に力が入り過ぎた気もしていますが、「読み応えがあった」と仰っていただけて、これはこれでよかったのかなとホッとしています。
第2回、第3回については、一応やる気ではいます。
今のところ確約は出来ませんが。^^;
こんばんは~
返信削除いや~句会ではボコボコだった「マルクス~」にも光を当てて頂きありがとうございます。
自分がおっさんの仲間入りをしたと認めるまでは常に背伸びしていたような気がしますね。
「ひみつ基地~」や「片目の~」にも新しい解釈をありがとうございます。
きっとこいつらも草葉の陰で喜んでいることでしょう。
ありがたやありがたや。
おはようございまーす。
削除「マルクス~」の句は、素材はけして悪くないものだと思うんですよ。
なので、僕は逆選に採りませんでした。
ただ、調理法でボヤけちゃったかな、とは思いました。
それ以外のどの句についても妄想・憶測で自分勝手な解釈ばかりしているので(選句でもそうですし)申し訳なさも感じているのですが、新しい解釈という風に言っていただけて、いくらか楽になれました。
こちらこそ、ありがとうございました。です。
いまさらですが、最近ようやく書き込み方を覚えたので、
返信削除拙句「貧乏を揺すって桜を見上げる」について自解を。
この句には、主語がふたりいました。
ひとりは、貧乏揺すりをしている男です。
ひとりは、貧乏な男をなんとはなしに揺すっている女です。
ふたりは、桜を見上げてぽつんと座っていました。
すみません、自解もまたわかりにくいですね・・・。
今後、わかりやすい句を拾えるよう、精進いたします。
ありがとうございました。
なるほど!
削除主格が二人ということで、ついに掴めました。
しかし、そうなると僕はやはり後者を強めたくなりますね。
そこはもちろん各々好き好きなところですが。
解説ありがとうございました。