2012年10月29日月曜日

闇鍋ゲームについて


 
さて、次回の11月には、鉄塊句会の番外編企画としまして、
「言葉の闇鍋ゲーム」なる得体の知れないゲームが、開催されます。

これのルールについては、以下のページに説明がなされています。
http://haiku-free.blogspot.jp/p/blog-page_16.html

このゲームを、企画開催するまでの道のりは、発案者である私自身も、極めてとんちんかん。極めて意味不明な衝動からこれを思いついたのですが、開催が間近になって来ましてやっと、論理的にもこのゲームの意味を説明できるようになってきました。

「何故、こんなわけの分からないゲームを思いついたのか?」

それは、

     私のひとつの仮説として、

すべての文章を、すべて、ひとつの名詞として、捕らえる事ができるからだ。という論理につながる事に気がつきました。

思えば、文章に、主語と、述語と、動詞がある。という定説は、本当は、サルや鳥や昆虫からすれば、そんなものは、人間が後からつけた言い訳にすぎないのかもしれない?ただの屁理屈にすぎないのかもしれない?
文法の一切の基礎、国語教科書の洗脳を取っ払ってしまった場合、この世の全ての文章は、そもそもは、「名詞」でしかない!?

いかなる文章も、名詞でしかない・・・!???
さあ、これは大問題です。

「おはようございます。今日も寒いですねえ」
という、ひとつの名詞。

「ニイタカヤマノボレ1208」
という、ひとつの名詞。

「種田山頭火」
という、ひとつの名詞・・・。

基本的にすべての人間ひとりひとりに個別に、親から名づけられた名前がついているという不思議を、ちゃんとマジメに考えた事が無かったのですが、これこそが、まさしく今回の闇鍋ゲームと同じ現象に向き合う問題であり、タウンページをパラパラとめくって人の名前だけを眺めた場合、極めてランダムに、極めて意味不明な文章が、膨大に自分の目の前に広がっていく事になるのですが、やはり、その中でも、見る人によって、その名前を見た時に、「パッ」と、その人のセンスのよさに、目をみはるものがございます。

これと同じ現象が、人間がお店で買い物をするときであり、本屋さんで、本の側面に書いてあるタイトルのみで、本を選び出す。また、コンビニで、モノを買うときにその商品のパッケージだけで、その商品を選び出します。

わたし自身、このゲームの開催例に出した言葉に

・うまい棒
・ボコスカウォーズ
といった、商品名を選んだ理由はここにあります。これらは、つまり、この世の全ての文章は、ひとつの名詞として鑑賞する事ができるからであり、その場合において、「ネーミングセンスのよさ」というものから、人が人を感動させる事ができるのであり、本当に自分の脳みそに大切な言葉は、一見、いかに意味不明なものであろうとも、ちゃんと脳に染み付いて、感動する仕組みになっているようです。

「ボコスカウォーズって、なんだ!!?」
と、出会ったその時から、そのネーミングのセンスのよさに脳が釘付けになります。

また、外国語を勉強する際も、やはり、外国の文字を一文字一文字勉強するところから全てが始まるのですが、この作業においても、この世のすべての文章は、そもそもは、名詞でしかないのかもしれない?という問題に、否が応でも向き合わされる事となります。γだとか、βだとか、矧だとか、日常見慣れない文字と真剣に向き合えば、そもそもは、すべてを名詞としてみる作業が、必ず脳の中で行われます。

以上の論理を、
「分からない文章を真剣に脳が理解しようとした場合、人間は、すべての文章を、ひとつの名詞としてとらえる。」
と、集約してみましょう。

ニーチェやカント、ランボーといった、この世のものとは思えないような、意味不明な長文を書き残した場合が最も分かりやすいのですが、私からすれば、ニーチェやカントやランボーといった人の書き残した文章は、あまりにも意味不明すぎるため、ニーチェ、カント、ランボーというひとつの名詞として、その文章のイメージ、感性が余韻として残されていく傾向にあります。

また、
「おはようございます」
「さようなら」
「ありがとうございます」
といった、挨拶についても、これも、やはり、分解していけば、「おはよう」と「ございます」を文法的に分けて、さらにその意味を細かく説明することができますが、使う人間の立場からすれば、これらも、文法的な解釈は、後から学者がつけた屁理屈なのであり、そもそも、どの挨拶も単体上の名詞でしかありません。


以上の説明から、どのような長文を書いた場合でも、パッと見て、一目見て、その人のセンスを見極めるという作業を行うのであれば、すべての文章は、そもそも、すべて名詞でしかない、という話につながります。

さらに言えば、人間が本当に感動をしている時、まずは最初に「名詞」という感覚として、その出会った感動を、そのままに表現するのではなかろうか?脳みそは、そんな作りになっているのではなかろうか?という気がします。

「これは・・・・、『相対性理論』だ!!!」
「この生き物は・・・・、『ミソサザイ』だ!!!」

と、あたかも、新発明。あたかも新種の生物を発見したかのような大興奮。感動をした場合、脳みその中が、まずはじめにそれらの感動を「名詞」として名づけたがるのではないか?と私は思うのです。

ボコスカウォーズを作った人は、このゲームソフトに対して、

・これは・・・・・「ボコスカウォーズ」というゲームだ!!!

という大興奮を発して、この名前を世に送り出したのだし、また、世界中の人間に名づけられている、そもそもの人名は、

・この子は・・・・「○○○○」だ!!

という、親の熱い想いのもとに、これだけのランダムな名前が埋め尽くされているように思います。

新しく出会った感動に、新しい名前を名づけるという事が、人間をもっとも感動させる行為であり、また、感動した場合、その言葉がひとつの名詞として独り歩きをする事にもつながります。

     古池や蛙飛び込む水の音

この句などは、松尾芭蕉という作者をとおりこして、これ自体がすでに、ひとつの名詞として独立した、確固たる地位を築いてしまっているように思えます。


 
さあ・・・・・・・、なんとも目がテンになってしまうような長い説明になってしまいましたが、
今回の企画に関しましては、やはり「ことばあそび」と思って参加していただければ光栄です。




「分からない文章を真剣に脳が理解しようとした場合、人間は、すべての文章を、ひとつの名詞としてとらえる。」

というルールの遊びなんだ、としてとらえていただければ、きっと、各自、何らかのヒントが得られるのではないか?と、思う次第です。

以上を踏まえまして・・・・・・、

闇鍋パーティーを開催いたしましょう!!






5 件のコメント:

  1. 余談ですが、このように

    「真剣に名前を考える」という行為は、
    「句集のタイトルを考える」という行為へとつながっていくようです。

    「奥の細道」「墨汁一滴」「おらが春」「草木塔」と・・・。

    なんか、これってセンスが良いぞ、と、気になるところです。


    句集のタイトルは、とても、とても、悩むところです。
    もしも、自分自身が句集を作るとしたら、皆さんは、一体どんなタイトルをつけますか?と、試してみるのも面白そうです。

    うーん・・・・・、

    うーん・・・、

    しかし、この動画は、両方ともひどいですね!

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    1. 句集のタイトルかあ…いつになることやら(;´∀`)

      >しかし、この動画は、両方ともひどいですね!

      闇鍋の動画はキツイっす(笑)
      なんか土に見えますよこれ…

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  2. 雪兎さんへ

    なんとも、悔しい動画ですね!

    鉄塊衆も負けじ!と、事件をやらかしたいところです。

    着々と、怪しい具材(ことば)が集結していますので、いきなりみんなで一斉に毒見となるでしょう。

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    1. 雪兎さんのコメントを読んで、動画を再生しました。後悔しました。

      できれば、もう少し美味しそうな感じに。せめて食物と認識できる感じにお願いできれば。

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    2. 鉄塊衆の中でも、一番、このワールドに巻き込んで振り回した感があるのが、kotoさんですね。

      いやあ、やりました。
      確信犯なので、これからも、やりますよ!

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