2013年7月6日土曜日

自由律俳句を広める?

※2013/07/06付、元鉄塊衆の自由律俳人・粟野賢太郎氏とのメールでのやり取りより抜粋

:どうして自由律俳句を広めたいのか?

:①私たちが詠んだ句が、時を超えて数百年後の未来にも残ることに浪漫を感じます。自由律俳句を読む(詠む)人を増やした方が、そうなる可能性が増えると考えます。
②裾野を広げることで自由律俳人が増えれば、ますます多くの佳句がでてくるように思います。そうした句に触れてみたいと、個人的に考えています。

:現状の活動では、不十分だと思う。

:①一朝一夕に、行動の結果が目に見えて現れるとは考えていません。数年、数十年レヴェルで、効果があらわれればよいのです。今の行いに意味があるかないかということは、時の流れが判断してくれます。自分たちの行動を無駄とみなすにはまだ早いのです。必要なのは、継続することです。
②もっとも、ご指摘のとおり、他にもさまざまな活動を行う必要はあるでしょう。この点については、他の自由律俳人の方々(「自由律句のひろば」など)がいろいろと行動してくださっているように思います。今後、議論が活発化することを願います。

:俺には実らない種を播いて死ぬまで水をやり続けてる風にしか見えない。

:実るかどうかは、今はわかりません。私が死ぬまでに実る必要は必ずしもないとも考えています。その時は、次の世代が引き継いでくれればよい。成功があれば、次の世代も作業をしやすくなるでしょう。失敗があれば、次の世代はそれを反省して、同じことを繰り返さなくなるでしょう。そこに、私は意味を見出します。向かおうとする意志さえあれば、いつかはたどり着きます。

以上、賢太郎氏とのやり取りをもとに、私個人の自由律俳句を広めることに関する考えを書きました。
これをたたき台にして、皆さんのお考えを書き込みいただければ幸いです。

10 件のコメント:

  1. 自由律俳句の現状について興味深いのは、「滅亡の危機」と騒いでいる人もいれば、「これから面白くなる」と期待している人もいて、何と言うか極端に分かれている感じなんですよね。ちなみに私は後者。

    それと今の自由律界に足りないのは結社ではなくむしろ出版社だと愚考致します。とにかく圧倒的にテキストが足りない。

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    1. そう言われてみれば両方いらっしゃいますね。数量的なデータが提示されない以上、「滅亡の危機」を鵜呑みにすることはできません。しかし私は、感覚的には前者よりな気がします。いい加減なものです。

      出版社の件は興味深いです。錆助さんは、プロデューサーが必要だとおっしゃられていました。この辺りの充実が、重要そうです。

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    2. 古戸暢さんが前者寄りとは意外でした。
      ただ、定型俳句にある種の不満を持つ方がいる限り自由律は滅亡しないと思います。それでも危機を感じているのなら、滅亡して困る事は何かと考えてみるのも良いかもしれません。

      プロデューサーの件はどうなんでしょう。少なくとも私は自由律俳句に対して「誠実な方」にやっていただきたいですね。

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    3. 言葉足らずでした。自由律俳句そのものは、なんらかのかたちで残り続けるでしょう。しかし、受け売りですが、現状のままでは社会的存在になることはないように思います。また、かたちを変えて残った自由律俳句は、私が今考えている自由律俳句の定義を拡大したものとなると考えるため、相対的に私が考える自由律俳句は減って行くように感じます。もっとも、定義を問われると答えに窮します。

      山頭火や放哉、顕信がここまで世に出たのは、やはり宣伝する人たちがいたからこそです(これも受け売りですが)。誠実な人たちに期待です。

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    4. 「かたち」は変わって行くでしょう。そもそもそうやって生まれたのが自由律俳句なのですから。少なくとも私は、今までのような句は書きたくないです。またお言葉ですが、明文化できない定義は定義ではないと思います。巧拙はともかくとして、はっきりと言葉にすべきではないでしょうか。

      山頭火も大山澄太さん無しではここまで広まらなかったでしょう。ただ、あの役目は山頭火が所属していた「層雲」がやるべきだったのではないでしょうか。少し嫌らしい話ですが、関係書籍が売れる度にいくらか「層雲」に収入が入るように仕組みを整えていれば、また違った展開があったのではと残念に思います。

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    5. 結局は、それが社会的存在となりえるかどうかという点に、重きが置かれるべきな気がしています。私が考える自由律俳句の定義については、草原WEBやウィキペディア「草原」を参照していただければと思います。下手にここに書くよりは、誤解が生じにくいでしょう。ただ私自身、草原の定義に沿っているかと問われれば、曖昧です。「定義」という言葉を用いず、「私が考える自由律俳句」と表現した方が、ずるいですが適当かもしれません。定義と呼べるほどの代物が自身の中にあるのか、不安視しているところもあります故。不用意に用いてしまい、申し訳ありませんでした。

      やれる人、やりたい人がやってきた感じですね。金銭的に収入が入るシステムがあれば、また展開は異なったでしょう。今後どのように発展するのでしょうね。

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    6. その「社会的存在」という言葉がいまいちよくわからないのですが、要は社会の中で「それなりの」位置を占めるという意味でしょうか。

      古戸暢さんが謝る必要はありませんよ。「草原」の「随句」についての定義は一考に値しますが、定義というのは厄介ですね。今考えている事が絶対ではないですし、後でいくらでも変わる可能性があるからです。私の場合は強いて言えば「俳句として変わりつづけること」でしょうか。

      私のは自由律俳句を広めることにあまり積極的ではありませんが(おおむね賛成ではありますが)、案外、虚子と同じ事をやればどうにかなるような気はします。

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    7. 「社会的存在」は、雪兎さんがおっしゃられたような意味合いで用いています。これまた不明瞭で、たびたび申し訳ありません。本文にあります通り数百年後に読まれるためには、現代社会である程度認知されている必要があると考えます。そのために、広めたい、という感じです。

      「俳句として変わりつづけること」には、同意いたします。私が不安に感じているのは、自由律俳句が俳句ではなくなっていくことです。なお「定義」は、変化を前提としていると考えているので、私はわりと肯定的にとらえています。

      虚子の件、不勉強なので少し調べてみます。広めることについては、私自身は、「自分ができる範囲で」寄与できればいいというスタンスでいます。楽しめればいいとも言いかえられますので、やや不謹慎かもしれません。

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    8. 雪兎さんへ

      ありがとうございます!無事、書き込みができました。
      鉄塊も、日々、戦況?が変化しつつありますが、
      どのような位置にこの会が運営されるのか、
      実に、考えさせられるものがあります。

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    9. >祖啓さん

      それは何よりです。
      「天気晴朗ナレドモ波高シ」の気概で参りましょう。
      いつか丁字戦法的な句を詠んでみたいです。

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