2014年3月15日土曜日

詩の言葉としての季語 ―佐々木貴子句集「ユリウス」―


この度、twitterで交流させていただいている俳人の佐々木貴子氏から氏の初句集「ユリウス」をいただいた。改めてお礼申し上げたい。

まず句そのものにふれる前に、氏の記したあとがきに注目すべき発言があったので引用する。

「…およそ十七年に及ぶ俳歴を振り返るに、そのほとんどは有季定型に対する内面的な葛藤であったと思います。表現したい何かがあるとして、それが何故季語という壁に対峙しなければならないのか、窮屈な十七音のスケールに削ぎ落とさなければならないのか、常に疑問を持ちつつも、その制限の中で表現することに、わずかながらの挑戦心をもって臨んできました。」(P170)

このような思いを持ちつつも、氏が自由律に傾かないのは興味深い。むしろ季語と十七音という制限が創作の源泉となっているようだ。私の俳歴も定型から始まったが、季語は最初から拒否していた。季語を使った俳句は、「他の誰かが書いてくれるだろう」といったある意味他人任せなところがあったし、季語の全てに感情移入するのは無理だと悟っていたからだ。詩の言葉は各人のポエジーがその都度求めるものであって、外部から押しつけられてはならないのだ。

さて、前書きはここまでにして、氏の句について語りたい。全篇を通して読んだが、言葉が油断していない。常に緊張して言葉を選んでいるといった印象がある。有季定型に対する葛藤の影響もあるのだろうが、むしろ文学表現として俳句と真摯に対峙しているがためであろう。


バラ咲いてひどく自由な昼下り

バラの可憐さに溺れず、突如現れた自由に対する疑問を呈している。このままで終わるわけが無いと本能的に知っているかのように。

金色の毬と歩きし雪野かな

氏はこういった美しい景を提示するものの、その美しさに全く拘泥していない。絶えず何かが「鳴っている」のだ。ノイズのような耳障りな音ではなく、あの世からこちらを誘うような声が。

あじさいや父の雑音母の無音

季語が詩の言葉として機能していない句はいただけないが、これは瑞々しさの中で静かに佇むあじさいの様子が違和感なく句全体に溶け込んでいる。

みな死んで赤い風船だけ残る

風船は一応春の季語ではあるが、ここではそういう事を気にしている場合ではない。むしろ季語だと意識すると、この句の衝撃が薄まってしまうだろう。皆の魂の象徴として天へと昇る風船が印象的。

垂涎の爺がまさぐる繭の穴

これが一番感銘を受けた句である。繭の穴をまさぐる理由は色々と考えられるが、その行為を「垂涎の爺」がするとは!見てはいけないものを見てしまった感があるが、己の業、ひいては人の業と向き合うのであれば、このような句から目を逸らしてはならないだろう。繭も一応春の季語ではあるが、むしろこの場合は春の句として読むより、こういった異常な景を作り出した黒幕が春と捉えるべきだ。わざわざ季節を意識しなくても、我々人間はそれに影響を受けているのだから。


季語に寄りかかり過ぎず、俳句の伝統に頼り過ぎず、表現すべきものを真摯に追い求めている良い句集だった。私は私で自由律俳句に対する葛藤があるが、氏の姿勢を見習って、それを創作に生かしていきたい。

3 件のコメント:

  1. 垂涎の爺がまさぐる繭の穴

    定型のことはよくわかりませんが、この句は五七五ではなければいかなかった句のように思います。

    返信削除
    返信
    1. この句は・・・・・、人間国宝とか、匠の技を極めた人が、年老いてなお、意識が朦朧としながらも、体のほうがかつての技を覚えていて、自動的に職業に励んでいる様子、として受け止めました。
      うーん、、、、しかし一読すると、なぜか、エログロナンセンスの句としても受け止められます。

      削除
    2. 古戸暢さん

      定型でなければ思い付かない句かもしれませんね。

      祖啓さん

      仰る通りです。どちらとも読めますね。
      土着的な力も感じます。

      削除