2012年9月10日月曜日

『ノイズ!ノイズ!ノイズ!』

 以前、何かの本で「チンパンジーの笑顔は恐ろしい」という記述を目にしたことがあった。何でも、その著者が語るには動物の笑顔を見ると、そこに人間が失ってしまった野生の中の狂気を垣間見てしまい、彼はどうにも恐ろしくなるのだという。だから、その著者は老若男女の誰もが可愛い、面白いと表現するチンパンジーの笑顔を見ても、大口を開けて鋭い犬歯を剥き出しにして笑う姿に狂気を感じるのだそうだ。

 俺は目の前に座り、嬉々として話をしているドンキーの笑顔を眺めながら、頭の片隅でボンヤリとそんな事を思い出していた。ドンキーとは、俺のガキの頃からのツレのアダ名で、その由来は勿論、任天堂が生んだ『マリオ』と並ぶ人気キャラクター『ドンキーコング』から来たモノだった。因みに、俺のツレのドンキーは任天堂の『ドンキーコング』の様に人気者では無い。どうにも頭が悪い上に、そのツラは二目と見られたもんじゃ無い程に不細工だったし、なんと言っても、奴の極度な斜視っぷりは、初対面の相手が大抵、目のやり場を無くして困り果てる程のシロモノだった。
 しかしながら、神様とは粋な野郎で、そんなドンキーには人並み以上の腕力を与えてくれた。ところが神様の仕事ってヤツは、何故かいつも片手落ちで、ドンキーはその人並み外れた腕力と引き換えに、理由無き暴力を振るう事に何ら躊躇いを必要としない想像力の欠如した精神構造を持って生まれてきていた。つまりドンキーとは、そんな男だった。だからドンキーはいつだって暴力によって群れを統べる事の出来る世界に身を置いていたし、実際そんな世界こそ、彼が最も生きる意義を見出せる世界だった。
 それにしても、その日のドンキーは上機嫌だった。話題は昨夜の出来事ばかり。ドンキーは、さも面白くて仕方が無いといったカンジでビールを呷りながら、その話を続けていた。
「昨日はどうにも寝苦しかったからよ、何人か呼びつけて河川敷の辺りをブラブラしてたんだよ。そしたら河川敷の駐車場の隅の方に車が一台、エンジン掛けて停まってんじゃねぇか。さあ、楽しい時間の始まりだぜ」
 話しながらも込み上げてくる笑いを堪えきれず、ドンキーは「ヒヒヒヒ……」と、会話を遮る思い出し笑いを漏らし続けた。
「俺は、ピンと来たからよ、スグに上半身裸になって、他の全員にもシャツを脱ぐ様に命令したんだよ。そして、全員が脱いだシャツを川の水でビシャビシャに濡らして、静かに車の周りに近付いたんだ。そしたら、案の定、車の中で若いカップルがイチャ付いていやがたからよ、だから、この俺様が仕置きしてやったんだよ。アハハハ……」
 ドンキーと俺は水滴で濡れた瓶ビールを互いに手酌しながら、安居酒屋の油で汚れたテーブルに所狭しと並べられた焼き鳥を次々に口の中へと放り込んでいった。俺達は育ちの悪さから来るものなのか、どうしてもガツガツとした意地汚い喰い方しか出来無い。犬の様に餌をがっつき、酒を浴び、キチガイの様に吠えるばかりだ。我ながら嫌になっちまう。向かいに座るドンキーのツラを見ると、ビールの酔いで充血した奴の目玉が、下品な笑顔で話し続けるその話に何処か狂気じみた熱が帯び始めているのを感じさせた。
「俺達がソッと車を取り囲んだから、車ん中のカップルは俺達に気付きもしねぇで、スケベな事で頭が一杯になってやがんだよ。恥ずかしげも無く抱き合ってやがる。俺達は一斉にバチャバチャと濡れたシャツをフロントガラスに叩きつけて貼り付けると腐れカップルの視界を遮ってやったんだよ。そのまま俺達は滅茶苦茶にドアやボンネット、天井なんかを力任せに殴ったり蹴ったりしてやったワケさ。笑えるだろ?」
 ドンキーはコップに残ったビールを一気に飲み干すと、気持ち良さそうにゲップを一発済ませて笑った。
「たまんねぇだろうな、天国から一気に地獄だぜ。何が何だか解らなかったんだろうよ、慌てて車から男が転がり出てきたから、俺がイキナリ、ソイツの鼻っ面を思いっ切り蹴り飛ばしてやったんだ。そしたら、鼻っ面蹴飛ばしたつもりが、どうも前歯を折っちまった様で、口ん中を血だらけにしてるわりにゃあ、鼻血を一滴も垂らしていやがらねぇんだ、だから、もう一発顔面に喰らわしてやったよ。今度はキレーに入って、笑えるぐらい鼻血を出してくれたねぇ。『あーっ、あーっ』なんて言いながら地面を転がってるから、笑った笑った。他の奴が腹の辺りを蹴り飛ばしたら、蹲って亀みたいになりやがったから、後は全員で袋にしてやったぜ」
 ピチャピチャとドンキーは指先についた油をしゃぶっている。
「女の方はどうしたんだよ」
 俺は手羽先に喰らい付きながら話の先を促した。
「聞かなくても解ってんだろうがよ。へへへ……。結構イイ女だったぜ。一、二発頬を張ってやったらチャンと言う事を聞く様になったからな。イチャイチャしてたわりには、全然濡れて無くて、最初ちょっとだけギシギシしたけど、三回も深く衝いてやりゃあ滑りも良くなって、しっかりグチュグチュとヤラしい音を立てたぜ。ただムカつく事にその女、一回も声を出さねぇんだよ」 「アンタが下手なだけじゃねぇの?」
 俺が茶々を入れると、ドンキーはゲラゲラと更に大きな声で笑った。
「でもよ、男の方はイイ声で鳴いてたぜぇ。『ごめんなさい、ごめんなさい』って、テメェの女が犯されてる間中、蹲って謝ってやがるの。ヒャハハハ……」
 ドンキーは涙を流さんばかりに大笑いしていた。
「お前も今度、一緒にやってみたらどうだ?」
「俺はパスだよ。その内、捕まってもしらねぇぜ」
 ドンキーはビールを呷ると、ニヤニヤしながら俺のコップにビールを注いだ。
「これはやったもんにしか解んねぇんだよ。何ちゅうのかよ。祭りなんだよ、祭り。頭ん中にさ、祭りの時みたいにスピーカーからガンガン流れる陽気な音楽や人の笑い声、話し声が聞こえるんだよ。車のクラクションや蝉の声も聞こえる。あのグラグラと全身が湯だって頭ん中が沸騰してる様な感覚、浮かれた祭囃子を体感しちまったら、何も無い日が死んじまってるみたいに無味無臭、カラッカラに乾燥して、カラーじゃ無い白黒の世界に見えちまうんだよ。それは、どうしようも無く糞つまんねぇんだよ」
 俺はドンキーに注がれたビールの泡を見詰めながら「この世間で真っ当に生きていくにゃ、そいつがノイズだって事に気付かなきゃ駄目なんだぜ、ドンキー……」と心の中で呟やいていた。次の瞬間、俺はそのビールを一気に呷ると、ドンキーに向かって言い放った。
「俺は、アンタと違って大人になったんだよ!」
 ドンキーは「アヒャヒャヒャハハハ……」とキチガイの様に哄笑すると、鉛の様に重い拳で俺を思いっ切りブン殴った。殴られた俺はビール瓶や焼き鳥の並んだ皿を薙ぎ倒して椅子ごと後ろにフッ飛ぶと、そのまま固い床の上に転がった。ゴツンと激しく後頭部を床にブツけると、成る程、ガヤガヤと俺の頭ん中にも不愉快なノイズが流れ込んでくるのが理解出来た。


  なにもかも月もひん曲つてけつかる  栗林一石路



1 件のコメント:

  1. 風狂子様

    御作拝読しました。
    作中、これだけ暴力に満ちあふれていながら、不思議と『善人』しか出てこない印象。
    これは本作の美点ではあるのでしょうが同時に弱点ともなり得ます。
    善人の物語は『暴力の定型』みたいなところに、嵌ってしまう怖れがあるんですね。
    もっと嫌な人間が出てきてもいいのでは。
    これは好みの問題ではありますが。

    >「俺は、アンタと違って大人になったんだよ!」

    ここは本作の肝ですね。
    ではドンキーは子供なのか?
    私には、そうとは思えませんでした。
    むしろ、デフォルメされた『大人』であり、理不尽な『世間』の象徴なのではないかと。
    主人公が最終的に、そのドンキーに粉砕されることからも、それは明かです。
    頭の中をノイズで満たすことで、人は成長していくわけです。

    そういったことから、アンチ『成長物語』、あるいはアンチ『青春小説』として、興味深く読みました。

    以上、勝手な思い込み、読み違え、ご寛容下さい。

    次作も楽しみに。

    畦道拝

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