2013年6月16日日曜日

風呂山書房を読む

※風呂山書房「―41―百句夜行「百十三句」より。
※風呂山書房はこちら

金多目に忍ばす部下と飲むのだ
「忍ばす」の主体が詠み手か部下かで、解釈がまったく異なる句。私は部下と読みたい。おそろしい上司である。

夜桜の下の見知らぬ顔だ
自宅近所に桜が立っている。たいていの場合は見知った隣人がその桜を見上げているのだが、今夜の人はどうやらよそ者。これも小さな非日常だろう。

帰りたくない花見の夜だ
祭りの後もそうだが、こういう時はなんともいえない寂しさを感じる。花見の夜であれば、桜は変わらず咲き続けているのだからなおさらである。

赤子あやす妻の眠そうな声
その声はまた、幸せそうな声でもあるのだ。

食べ過ぎた父でいるお食い初め
赤子のための行事だったはずだが、ついつい食べ過ぎてしまった。後々、家族内で「この子のお食い初めのときはおじいちゃんが食べ過ぎちゃって」という会話が繰り返されるのだろう。

林の入口の忘れ去られた叢塚
かつてこの地で飢えて逝った人が幾人もいたことを、この塚だけが記憶している。いつかこの塚も、自身が叢塚であることを語ることすらなくなるのだろうか。

赤子の髪整える風呂上がりの妻
一読、赤子のにおいが漂ってくる句。皆ほくほくしていて、楽しくなる。

わが子の瞳の中みつけた春の空
わが子なりに、この世界を認識し始めているのだろう。元気に育つよう。

赤い椿赤い椿とまだ落ちないのか
椿をみると落ちるかどうかということに思いを馳せるのは、自由律俳句を詠む人たちの職業病な気がする。

子の熱案じる父でいる午後の雷
父はたいていの場合、子どもから離れたところで働いていなければならない。雷がまた不安を募らせる。

鉄の塊なる悦びである昭和の日
おそらく鉄塊入会の際に詠んだものと思う。自分たちが鉄の塊であるという認識はなかったが、そうなのかもしれない。熱いうちにどんどん打たれたいものである。

育児書の増え肩身の狭い太宰治
熱心さに、太宰も感心していることだろう。

アイツなら逝っちまったよ通し鴨
この場合のアイツは人のことか。人が逝こうが季節はうつろう。

10 件のコメント:

  1. 取り上げていただき、ありがとうございます。
    備忘録のようなブログなもので、こうして評をいただけるとは思ってもみませんでした。
    大変励みになります。今後も精進いたします。

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    1. 以前より、時折拝読しておりました。
      また機会があれば、取り上げさせていただければ幸いです。
      今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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  2. 「赤い椿赤い椿とまだ落ちないのか」

    碧梧桐の例の句を思い出しますが、改めて椿が落ちる理由を考えてみたくなりました。科学的なもの以外で。

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    1. 「散るから桜(ゆ)」に、何がしかのヒントが詰まっている気がしました。

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  3. 『子の熱案じる父でいる午後の雷』

    自宅から離れた場所で、だんだん近づいてくる雷を聞きながら、熱を出した子の病状を思う。仕事中なのでしょうか。忙しい最中にふと、父親の顔になる瞬間がよく描かれていると思いました。

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    1. 吾子が小さければ、なおさらです。この日は一日、空模様と同じく、笑顔を浮かべる余裕がなかったのかもしれません。

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  4. 「育児書の増え肩身の狭い太宰治」

    育児書って何であんなに似たようなものを
    何冊も買っちゃうんでしょう。親の不安に
    つけこむようにいろんな育児書が手を替え
    品を替え出てきてしかも数が出て売れます。
    この句になんともいえず共感しました。

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    1. そのような出版状況にあるのですね。人の親ならではの句だと思いました。

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  5. 「食べ過ぎた父でいるお食い初め」

    こういう光景は人生の中で忘れることのない一こまになっていく、これをすくい取っているのが良いなと思いました。身の回りの風景を見渡してみる、私もそんな風にしていこうと思いました。

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    1. 生活詠ですね。この積み重ねを、人生と呼ぶのでしょう。

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